シロノワールシロノワール2015年03月25日 01:34 「読書について」 僕は本を読まなければ知ることもなかった世界をたくさん知ることが出来ました。 僕に生きがいや刺激を与え、つまらないのは世界ではなくお前なんだと教えてくれたのも本です。 そして、今までだったら当たり前過ぎて認識していなかったことについても本は気づかせてくれました。 世の中には魚にとっての水のように、普段当たり前すぎて価値を感じていないものがあります。 技術だったり、自然科学だったり、幸せだったりと、それはまあ多岐に渡ります。 まさに僕は本を読むことによって、当たり前過ぎて考えることもしなかったことについて認識することができるようになったのです。 それがどんなに素晴らしいことか説明するのは難しいですが、一つ言えるのは、それはいつもの家路を歩いているだけで涙が溢れてくるほどだということです。 今はもう、寂しさを紛らわすための人づきあいは必要なくなり、1人公園で座っているだけでも心の充実を感じることができるようになりました。 「百聞は一見にしかず」 それはその通りだと思います。 僕自身、哲学書を読んで真理の探求をしていた時には、実際に本を書いてる著者や宗教家に会いに行って疑問をぶつけたりしました。 また、ビジネス書を読んで興味が湧いた時には気づいたら六本木でふたまわり以上年上の人たちしかいない輪の中にいました。 そして、来月の頭にはアメリカの西海岸にある大学や企業、ハリウッドのスタジオなどを訪れる予定です。会っていただく方には既につたない英語でしどろもどろになりながらもアポを取って頂きました。 自分で見ることや聞くこと、感じること。それらの大切さは常に痛感しています。 本を読むことよりも、実際に見ることの方が大切だという方の意見も頷けます。 ですが、読書は僕にとって単なる知識を得るためのものではありませんし 将来のためにしていることでもありません。 読書、、、 それは、僕にとって心の琴線を増やしてくれるとても大切な存在とも言えます。 「行動しなければ意味はない」 「知識だけでは役立たない」 「言葉に出来ない大切なものがある」 そんなことは百も承知です。 ただ、 トイレに行くように無意識に書店に通い(数えてはいないので分かりませんがだいたい年間300日以上くらいでしょうか)、病的なくらい読書をし続けられるというのは、僕の個性だと思っています。 それをやめる気はありません。 僕が過去に「将来役に立つから」と大人に言われて始めたことで、多少優秀になれたことはあっても、才能を伸ばしてくれることはありませんでした。 中高生の時に将来役に立つからという言葉ではじめたどんなことよりも、小学生の時にドキドキしながら本をめくっていたことの方がよっぽど自分を磨いてくれました。 多くをそこから学びました。 いや、学んだという言葉は適切ではないのかもしれません。 そうではなく、目の前のことに没頭していたということ。それが何よりも本質的に人生を生きていたのだということに今になって気づかされます。 そして多くの英才教育が乱立している今の世の中ですが、 自分が夢中になれることほど自分の才能を伸ばしてくれるものはないと僕は確信しています。 役に立つから読書をしろと人に勧める気はありません。 読書をしないやつは馬鹿だと人を見下す気だってありません。 そして、読書こそ他を圧倒するような価値があるものだと主張したいわけでもないのです。 僕の場合夢中になるものが読書だった。 ただそれだけなのです。 読書がどれだけ役に立つのかということについて語ることはしません。 そして、本心ではこのような読書についての文章すら書く必要はないと思っています。 なぜなら本を読むことに理由などいらないと思っているから。 本を読むことについて様々な意見があろうとも ただただ僕は本を読み続けるだけです。 役に立たない だとか いや、本を読むことは役に立つ だとか 何のために本を読むの? だとか これこれこういう理由で本を読む と言って論争をするのは、僕にとって必要もないのです。 なぜなら僕は • • • 読書を愛しているから • • • • • • • • 。 ただそれだけです もうその一言で充分です だって 愛していることに理由なんて必要ないでしょ?