生き方、とか、信念ってものは
大なり小なり人にはあると思うのだけど
大体が正解か不正解かなんて分からず、それでも何かを信じながらやってくもんだと思う
大してメンタル強くないぼくが
人の不満や苛立ちの捌け口になってまで
こだわって描いている絵にだって
信念やらがあったりするけど、それを誰かに委ねたりはしない
合ってるかどうかとか、そんなんで描いたり描かなかったり出来るほど器用ではないし
批判されるのも、どうやったってそういうのは寄ってくるから仕方ないし
描きたいって思う衝動は失いたくないし
衝動があるから人に贈る言葉も浮かぶしね
何らかで、これは間違ってるのかな、と悩んだ時って
肯定してもらいたいだけで、間違ってるなんてさらさら思ってないんだろうね
肯定されるのは嬉しい事だけど、否定してる人が正しいのか肯定してる人が正しいのかを選ぶのは
結局自分で、何となく間違ってるな、と思ってても、自分のしたい方が正解だと言葉を聞くのも
また人の狡さで。
ぼくはあんまり片方の言葉だけで判断はしない
お悩みならその人の心だけで事が済むけど
何かしら対人の問題は、双方、当事者全てに話を聞かないとなんも分からん
そりゃぼくも人なのでその時その時に感情は動くのだけど
決めつけて何かを言う事はしたことは無い
と思う
Twitterを消した(と言ってもまだ垢復活は出来ますけど)
のは、ぼくの一種の言葉たちの生み出せる場所だったのだけど
あまりにも見るに耐えなくなり、フォローなり切っていってたのだけど
良心の呵責に耐えられんなったから
って言うとなんかあれだけど
簡単に言えば、見たくない言葉で心を使いたくなかった、です。
ぼくに会いたい人がいるのか知らんし
会ってもお喋りではないので楽しくはないでしょうけど
ぼくはぼくで会いたい人もいれば、何となく行きたい場所もある
結局ぼくやらが意味不明に怒って、周りがまぁまぁ、ってなってんだろうな
って思う
難しい人、って言ってくれるのは構わんのだけど
最初から分かろうともしてない人達にわかる程人の心は簡単ではないです
わかってくれる人だけでいい、だなんて逃げ言葉でしかない。
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