二人の嘘
蛭間隆也は、圧倒的に哀しくて優しい。優しすぎる。
これほどまでに慈愛に満ちた漢がいるだろうか?私はまだそのような人間に出会ったことはないが、きっと世界の片隅に、そのような人間はいるのだろうと思う。
蛭間隆也のようにまっすぐで優しく、強く、そして間違うことができる強さと、
間違えない人間の弱さを見抜けるような人間でありたい。
あの人にもう一度会いたい。
この想いがすべて。この想いを遂げるために、礼子はどれほど強くなれただろうか。
人間らしい感情を取り戻した礼子に安堵した。
私も礼子と一緒に、高級車を飛び降り、蛭間へと向かって走る、走る、走ったようなスリルを味わった。
並んで歩くこともなく、名前を呼び合うこともない。相手を心から想う。全身で感じる。
本の帯の言葉が脳裏に浮かぶ。
これほどの純愛を、人は醜聞というー
間違えても構わない。
全てを失っても構わない。
他人に醜聞だと言われても構わない。
覚悟があれば…。
衝撃の結末を読み終え、しばらく、この小説の世界から抜け出せなかった。哀しくて切なくて涙が止まらない。私を哀しみから救ってくれたのは、多田義久から届いた荷物。二人が一緒だった証を礼子が無事受け取ったことだった。
そしてもう一つの愛。
自分の伴侶との人生を犠牲にしてまでも、礼子を育て、いつまでも礼子を思う優しい叔母の気持ちに胸を打たれた。本来あるべき母親像であると感じた。
子を捨てに来た母親への憎悪を滲ませた少年と、かおりという5歳くらいの女の子の優しさに、心の奥深くに隠された悲しみ、寂しさ、心の傷を感じ取り、胸が痛み苦しくて、それ以上文字を追えなくなって一旦本を閉じた。
この世には、親と暮らせない子供、親と一緒に暮らしていても、まともな愛情を受けられず、心も体も傷つけられる不幸な子供が未知数いるのだ。それが何より悲しい。子供には何より安心できる愛情が必要なのだ。
恋愛体質だった私が、年齢を重ね、本も映画も音楽も恋愛ものに興味が薄れてきた現在において、「二人の嘘」も最初は手にする機会を見失っていた。ある時、見城さんが、「二人の嘘を読んでいない人と、今は友達にはなれない、そんな気持ちです」という内容のトークを目にし、当然のごとく読まずにはいられなくなった。
そして、この本との出会いに感謝している。
まだ純愛に感動する私がここにいることに気づいたから。
前へ次へ