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モウリス@ニコ生NEX ZERO

『指原莉乃座長公演@博多座』解剖① 〜神志那結衣・秋吉優花編〜 8月22日昼夜公演を観劇。 気がつけば、明治座とはまったくテイストが違っていた。第1部の半ばくらいだろうか。明治座の印象はとにかく「かわいい」だった。昭和歌謡ショー・フォーマットと掛け算されたメンバーたちは、横内氏の周到に練られた構成、ダイアログ、美術設計にあまりにもフィットし、アイドルという存在が大衆娯楽の系譜から少しも逸脱していないことをも見せつけてしまった。しかしそれは、半ば意識的でない要素も含んではいた。言わば「究極のやらされてる感」である。やらされてることを一生懸命やってる健気さ。それが物語と重なって、とてつもないレバレッジが掛かった。それが明治座成功の、ひとつの側面である。 ところが博多座には、それがまったく皆無だった。いくらなんでも、たった4ヶ月でこの変化を予想しろという方が無理だ。しかし現に、博多座のメンバーたちは微塵も「やらされて」なんかいなかった。ほぼ全てのメンバーが自立していた。自分の役を掘り下げ、意識的に造形しているのだ。しかもそれらは一点を向いていない。各メンバーが、自分の個性と適性をそれぞれにアレンジしている。そうでありながら、全体の統一感も明治座よりも増している。そこには、個人プレイを受容し合うことでまとまるというHKTそのものの性質も垣間見える。 博多座がスタートして間もなく、神志那結衣と秋吉優花への絶賛が飛び交った。それだけに、初めて観る際に前評判バイアスが掛からないよう用心したくらいだが、確かに両名とも、遜色ない活躍だった。あとから追加されたための座りの悪さはあったが、その違和感をカバーして有り余る。 神志那は、本人の素質もさることながら、横内氏の計算も見事だった。男役をやらせたことが、そもそもの成功の要因だろう。神志那は、ふだんの劇場公演においても、体型とそこから繰り出されるパフォーマンスが男性的だからだ。「美人」というキャラに惑わされてはいけない。神志那結衣の魅力とは、むしろ男性的なダイナミックさにある。 秋吉優花にも、彼女の個性をいかんなく発揮できる設定が用意された。それはかつて久世光彦のドラマにおいて由利徹や樹木希林が担っていた「出て来るだけで何かやらかしそうな存在」に近い。(久世ドラマが大衆演劇のフォーマットを意識していることは明白で、常連の由利徹などは現に大衆劇場・ムーランルージュ新宿座の出身である)秋吉もまた男役をあてがわれているが、神志那とは意味が違う。神志那の男装は宝塚的なものに近く、秋吉のそれはコメディ・リリーフとしての装いである。髷ヅラの秋吉が出てくるだけで吹き出しそうになる。そこで彼女が優れているのは、その期待感をきっちり超えてくるところだ。笑いの勘。しかもそれは、コンテクストを必要とする48グループのバラエティーを超えた、普遍的な可笑しさだ。そしてそれを振り切る全力感。何事にも手を抜けない彼女の気質が、舞台をはけるときの後ろ姿にまで現われていた。 秋吉の優れている点は、まだまだそんなレベルではない。コメディ・リリーフは、単に笑いを添えればいいというわけではない。作品の世界観を壊してはいけない。むしろ作品に厚みを与えてこその役割である。それを初舞台でやってのけた実力と舞台度胸には感服するしかない。 …と、まぁ、この2人だけでこれだけのことが語れるわけだから、明治座からのメンバーについては、その何倍も書くことがある。宮脇咲良を筆頭に、朝長美桜、村重杏奈、穴井千尋、多田愛佳、熊沢世莉奈…等々。特に宮脇咲良については、そろそろきちんとした論考をまとめてみたいとも思う。美桜の無謀とも思える(故に多大なる誤解を生んでもいる)挑戦についても、そろそろ書いておきたい。それらについては、また機会を改めて。 (つづく)

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