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見城さんbot 実業編
トーク情報
  • 【公式】鈴木商店
    見城徹見城徹

    書籍と雑誌が劇的に売れない。僕の実感では5年前の7分の1ぐらいに落ちている。毎夜22時30分前後に送られて来る書店売り上げのPOSデータを見るのだが、ここのところ見るたびに呆然としている。3月末で今期のおおよその業績が固まる。本の売り上げに頼らないビジネス構築に手を尽くした結果、何とか数字は確保したが来期に向けて不安は募る。昨夜、博報堂、サイバーエージェント、ジャパネットたかたの経営者3人と食事を共にしていて胸に沁みたことがある。最後は経営者の人間力だ。どんな困難も人間力さえあれば凌げる。破竹の進撃をしていても、その背中には痛々しい激戦の傷跡が刻印されている。やるか?やらないか?乗り切るか?諦めるか?困難を突破し続けること。昨夜の3人はその戦いを乗り切って、きっと次の困難に赴くさ中、痛々しいほど微笑んでいる。事業とはビジネス・モデルの問題ではない。不屈の精神と人間力だ。

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  • 【公式】鈴木商店
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    今日は11時30分に大きな決断をしなければならない。今年に入って一番大きな決断になる。今は最後の情勢を見極めている。大きな決断なんて狂わなければ出来ない。一期は夢よ、ただ狂え。

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    世界はこのまま続くという前提に立って全ての秩序や競争、ゲームは成立していた。それが今、突然のように世界はオマエたちの積み上げたルールでは続かせないと通告されている。世界の前提が壊れているのだ。全ての価値がガラガラポンになる。見城徹が新しい見城徹になる。幻冬舎が新しい幻冬舎になる。全ての価値をぶち壊したかった僕の衝動が本物だったかどうか試される丁度いいチャンスだと思うしかない。

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    ↑ 日本テレビの議長だった氏家齊一郎さんとの最後の5年間を思い出す。1日に1回は携帯電話が鳴った。週に1度は会っていた。お茶目でざっくばらん、スケールの大きな人だった。スケジュールを調整するのが大変だったが、僕は氏家齊一郎さんから大事なことをいっぱい学んだ。そして、何よりも人間として大好きだった。惚れていた。竹下登さんの言葉に氏家齊一郎さんが付け加えた1行。
    「見城、俺もなかなか出来ない。しかし、お前は出来るようになれ」
    氏家齊一郎さんの声が甦る。
    氏家齊一郎、2011年3月28日、84歳で没。

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    僕の嫌いな[夢]について初めて少し語ります。
    18歳と27歳の時、中学時代からの夢が実現しました。しかし、若さ故の意気がりか、ようやく手に入れたその夢を自分から手放しました。そこに安住したくなかったのです。今でも時々、後悔します。そして、34歳の時、熱狂の末に手に入れた夢は年を追うごとに色褪せました。つまり、それらは実現してみると自分の生きるモチベーションにはなり得なかっだのです。勝手なものです。
    今、僕は幾つかの夢を実現したと思っています。しかし、それらは実現した後、そうか、これが自分の夢だったんだと気付いたのです。僕には今、果たし得ていない夢が3つほどあります。一番大きなものは僕が生きている内はに実現しないでしょう。現実は苛酷で、一つを得るためには一つを失わなければなりません。残りの年月を考えると
    切なくなりますが、どれを優先するか?は覚悟を決めた選択の問題になります。人生は長いようで短い。73歳になってそのことが胸に沁みます。
    今日の絶望を明日の苛酷に。夢は実現した後にそれが本当に自分の夢だったのか吟味して語るものです。結論はきっと人生の最後の日にしか出ないものかも知れません。

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    おはようございます。身体の衰えを痛感する日々です。一番ショックなのはベンチプレスのMAXの重さが35kgも減ってしまったことです。右肘の炎症はありますが、いくら何でもこれは劇的で、酷過ぎる。落ち込みます。いつかは止めなければならないウェイト・トレーニング。どうやって筋肉を落として行くかを考えなければならない年齢に来ているようです。毎日が筋肉痛でなければ気が済まない今までの自分も異常ですが、筋肉が落ちて行く自分を受け入れるのも異常です。身体だけでなく全てを収束に向けて調整するのは覚悟はしていたもののやっぱり辛い。自分が引き千切られる感覚です。自分の人生を収束に向けて調整しながら、戦いも続ける。前に進む。この絶対矛盾を切り裂いて今日も生きます。
    I Will Go to War!

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    73歳にして思います。
    正直、善良、誠実、真心、忍耐こそが往く道だと。どれか一つが欠けてもダメだ。5つが合わさって王道なのだと。
    「往く道は精進にして忍びて終わり悔いなし」
    千日回峰行を2度満行した比叡山延暦寺酒井雄哉大阿闍梨の言葉です。正直、善良、誠実、真心を持ってどれだけ忍び切れるか?それこそが勝負です。

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    ブレたら必ず失敗する。甘い囁きに心を奪われるな。甘いものには毒がある。地道に積み上げた自分の圧倒的努力を信じよ。近道なんて絶対にない。
    辛くても、苦しくても、ブレないでそれを受けよ。
    ウェイト・トレーニングにも近道はない。苦しまなければ結果は出ない。
    「私の体はNOと言ったが、私はYESと言った」
    アーノルド・シュワルツェネッガーの言葉だ。
    人生も仕事も同じだ。限界に来てからが勝負だ。
    毎日が筋肉痛。毎日が憂鬱。限界を突破するか?しないか?やるか?やらないか?ブレないで自分で決めろ。I Will Go to War!忍びて終わり悔いなし。誰の人生でもない。たった一回の自分の人生だ。

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    僕が角川書店を辞めることになるきっかけは、突然やってきた。それは本当に青天の霹靂だった。
    1993年8月29日。角川書店の角川春樹社長が、コカイン密輸疑惑で逮捕されたのだ。社内は大混乱に陥った。角川春樹は獄中で代表取締役社長を辞任。
    僕は編集部門の全てを統括する取締役だったが、即座に角川書店を去る決意を固めた。角川春樹のいない角川書店に僕は居るつもりはなかった。それが仁義というものだ。
    僕を誘ってくれる出版社は数年前からいくつかあった。しかし、最初は20数人の部下が僕に付いて行きたいと申し出てくれて、一人で他社に移籍する選択肢は消えた。ならば出版社を設立するしかない。初めは僕を含めて6人が限界だった。1993年11月12日、五木寛之さんが名付けてくれた[幻冬舎]は新宿区四谷三栄町に設立登記された。100人が100人、すぐに失敗するとの大合唱。僕は42歳。不安と恐怖の旅立ちだった。
    あれから25年が経とうとしている。幻冬舎は生き残った。
    2018年11月12日。「幻冬舎創立25周年記念出版」として百田尚樹[日本国紀]は出版される。