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anonymous

資本主義社会においては資本力の多寡でゲームの選択肢が変わる。故に資本家は資本を元手に増やす為の手段を講じており、数多ある選択肢の一つが投資事業組合へのLP(有限責任)出資というものである。 この投資事業組合から事業資金を得た時点で資本家の絶対優位で経営が進むことになる。これは議決権のシェアの問題ではなく、「経済原理的に投資を受けなければ事業が開始できなかった」という状況下においては、10%も67%も結論変わらない。事業が立ち上がってくれば議論できるかもしれないが、基本的にはフェアな議論ではないと思った方がいい。 しかし、資本家がベンチャー投資に金を振りまくったことにより投資家が増え、それにより供給過多になった。供給過多になると需要を生み出している側である起業家が優位になったような錯覚に陥る。投資家も起業家から選ばれたいので、自分は偉くなんかない、起業家の成功が一番だ、と言う。余計に起業家の錯覚を助長してしまう。 本質的には資本家が金を出して起業家にやらせているという構図にはなっていると思うし、フェアではないと思う。起業家あっての投資家、黒子に徹して表には出ず、が美徳とされているし、殿様的な態度ではマーケット内ですぐに評判が悪くなってシカトされ始めるのがオチだ。やがてそうした投資家は日本を出てアジアに行ってみたり、イベンターとして活躍するようになる。 ぼくが思う最も美しい投資家の形は、自らが資本家でありリスクを取った投資家であるという状態。市場に対して挑戦して、価値を生み出し、対価を得て、更に投資して、価値の総量を上げていく。価値の「上げる側」、世の中を「進化させる側」の一端を担いたい。

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サラリーヴェンチャーマンのおたけび
トーク情報
  • anonymous
    anonymous

    といいつつ、これくらいのクソ評価を実際に読む前の「不恰好経営」でも下してたので

  • anonymous
    anonymous

    学びの多い2年だった。前職で、自我をいかに殺すか、というテーマで生き抜いてきた自分にとって、自我の解放に取り組み、徐々に手応えを感じるようになった2年だった。最後は心から素の状態になることが出来た。プレミアム無し、ディスカウント無し、等身大の自分を知った。同時に自分自身が出来ることとして、人を楽しませること、鼓舞すること、励ますことを昇華させていった。また、仕事の概念が大きく変わった。仕事のパートナーは、社会に価値を生み出し、ビジョンを実現するために生きている人たち。もしくは、解決せねばならない課題を感じて戦っている人たちだった。ビジョンと行動が一致しているわけだから、イヤイヤ言いながらスタートアップをやっている人なんて居ない。仕事とは金を稼ぐためのもので、好きなことをやるものではない、という反ロックスターな思考を捨て去ることが出来た。決断した数、苦境に立ち向かった数が人を成長させることを知った。そして、ぼくは自分自身で決断を下していないことに気づいてしまった(≒そう思ってしまった)。このまた行っていいのか?という不安の中、増えすぎてしまった守るものと照らし合わせ、考えに考え抜いた。結果、2度諦めた。自分らしく生きるのはやめよう。家族のために嫌な仕事をやろう。そう思った。次の日から会社に行きたくなくてたまらなくなった。毎日死ぬ気で戦ってる相手に対して失礼だと思った。何故自分が生きているのか明確に分からなくなってしまった。目の前の風景が全てセピア色に変わった。使命に生きるか、今死ぬかどちらか選ぶことにした。死ぬ方法を沢山調べた結果、首吊りがもっともコスパが高いことに気づいた。諸々準備した結果、気が楽になった。いつでも死ぬことができる状態を作った結果、守るべきものを失ったとしても挑戦をしてみようと思えた。そして今に至る。これまでの自分に影響を与えてくださった皆さんに感謝したい。今後は社会への価値創造と後世への貢献を出来るように事業サイドから挑戦します。誰かの人生を変えられるような人になれますように。