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橋場日月
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先日から、岸和田城とその周辺の取材に行って来た。 江戸幕府の岸和田藩主は外様大名・小出家の次に松平康重さんと言って、猛勇で鳴らした松井忠次という人の息子が譜代大名として初めて入るのだが、寛永17年(1640)に亡くなるとこの地に葬られた(京都の金戒光明寺さんにも墓あり)。 その墓が、こちら。 え、え、何これ? と思わず戸惑ってしまうのだが、ここ、かつては心蓮寺さんというお寺の境内だった。 心蓮寺さんは直線で200mほど北にある光明寺さんの隠居寺(引退した元住職などが住む)で、康重さんはこのお寺の墓地に葬られたわけだが、年月の間に寺が無くなり、更地となり、かつては月極駐車場として使われ、現在は光明寺さんの盆暮れ?参詣の時のみ臨時駐車場となるようで、写真の通り人気(ひとけ)が無いところに立派な五輪塔だけがポツンと取り残されてしまったのです。 いやはや、まさか康重のお殿様も自分が4世紀近く後にこんなところで眠っていることになるとは、微塵も想像しなかったことでしょう。 人間は、生きているときも、永遠の安らぎを得たあとも、一寸先は闇なのであります。

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橋場日月のトーク
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  • 橋場日月
    橋場日月

    で、その松葉屋。
    幕府公認の遊里・吉原に対し、非公認の遊里は「岡場所」と呼ばれたが、そのうち深川は「辰巳芸者」で知られる殷賑ぶりだった。
    「富岡深川草」はだいたい「べらぼう」と同時代の深川ガイドブックで、その中にこれも「松葉屋」がある。こちらは遊女屋ではなく茶屋(遊女を呼び出して客と遊ばせる)だが、筆頭の規模を誇ったらしい。
    吉原の松葉屋は郭内にいくつも支店(分家?のれん分け?)を持っていたが、この深川の松葉屋もそれだろうか。
    だとすれば、気軽に遊べる岡場所に押されがちだった吉原の経営者が、リスク分散のために深川にも拠点を構えた、とも考えられる。
    ドラマの松葉屋半左衛門さんは茶々なるニャンコにうつつをぬかしておられたが、実際はとんでもない戦略家だったのかも。

  • 橋場日月
    橋場日月

    書き足しとくと、松葉屋は小芝風花さん演じる花の井(のちの5代目瀬川)が属する遊女屋である。

  • 橋場日月
    橋場日月

    「べらぼう」第一回では蔦重が大きい桶の中に閉じ込められる折檻を受けていたが、これは「桶伏(おけぶせ)」と呼ばれる私刑で、吉原で支払いが滞った客を責める方法だった。
    ただし蔦重の時代より1世紀も前に絶えたと考えられているので、まだ移転前の元吉原末期までかも知れない。
    つまりこれはドラマの創作なのだが、うまく挿入したものだ。

  • 橋場日月
    橋場日月
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    桶伏に処されている男、髪が乱れもみあげも伸びて、いかにも放蕩かつ金払いが悪い半端者っぽくて良い。

  • 橋場日月
    橋場日月

    それでは、桶伏仕置きが無くなったのは見せしめ効果による無銭飲食の絶滅によるものやだろうかというと、そうではない。

  • 橋場日月
    橋場日月

    早い時期に「桶伏」が消滅したのは、何日も懲罰しても肝心の回収にはつながらない、回収できるまでのタイパが悪い、という至極ごもっともな理由からだったろう。

  • 橋場日月
    橋場日月

    見せしめ自体も裏を返せば他の客の浪費意欲を萎えさせるという逆効果を生むものでもあった訳で