モリカツモリカツ 今日、カミさんと一緒に栄光のバックホームを観てきました。
モリカツのトーク
トーク情報- モリカツ
モリカツ 本日、2度目の栄光のバックホーム鑑賞。私は映画館にお金を払って同じ映画を2回観た事はこれまでなかったのですが、755を見ていると、何度もご覧になった方が何人もいらっしゃるので、私も今回は複数回観てみようかなと密かに思っておりました。
1回目は慎太郎さん、つまり松谷さんにフォーカスして観ていたのに、2回目はお母さん役の鈴木京香さんに引き込まれていました。兎にも角にも京香さんの演技は本当に素晴らしい。映画を観た方なら衆目一致でしょう。
それにしても栄光のバックホームは何という映画か。私はYouTubeをよく見ますが、この映画に触れてからは、タイガースが優勝を決めた試合の岩崎投手の登場シーンを見ては涙ぐみ、著名な方が横田さんを語るシーンを見ては涙ぐみ。こんな事今までありません。何故こんなに心を動かされるのか。少し時間をかけて考えてみて、自分なりの見解をまた書いてみたいと思います。いやー、今日も感動しました。 - モリカツ
モリカツ 何故こんなに心を動かされるのか見解を書いてみたいと書いてから随分と時間が経ってしまいました。ただ、書かなかったのではなくて、書けなかったんですね、難しくて。
自分の感じてる事を言葉にするのは本当に難しくて、単語や文章を見ては違うなぁの繰り返しでした。最初は755に直接打ち込んでいたのですがどうしてもダメで下書きしました。それでも時間がかかっちゃいましたが。そして随分と長くなってしまいました。軽い気持ちで書いてみまーすとか打ち込んだ事を後悔しましたし、自分の文章を公開するのは勇気がいりますが、幸いな事に私の書き込みは注目度が限りなく0に近いという現実がありますので、それを安心材料にこれから下書きを転記します。 - モリカツ
モリカツ なぜ栄光のバックホームはこれほどまでに人を感動させるのか。それはこの映画が普遍的な美しさを紡ぎ得た作品だったからではないだろうか。
無色の透き通った液体が、透明の容器に満ちている。容器全体が中の液体と相まって妙なる美しさを醸しているのだが、底の方には汚れて濁った滓のようなものが溜まっている。邪な気持ちが頭をもたげてくると、滓が上がってきて透明で美しかったはずの液体に濁りが出てくる。さらに邪な気持ちが強くなると、どんどん滓が上がってきて、もはや向こう側が見えない程に液体は濁ってしまうのだ。私が思う人の心や魂のイメージである。
あくまで私のイメージという事になるが、見城さんがおっしゃる善良、正直、真心、誠実、感謝、謙虚は、純粋なものとして存在する美しく澄み切った透明の液体である。駆け引き、裏表、狡猾、誤魔化しは下に溜まった汚れ、滓と言えよう。人間の心は清濁が混在しており、どちらか一方だけの存在はありはしない。人間は美しく、そして薄汚いのだ。
横田慎太郎さんの生涯を思い起こしてみる。慎太郎さんの心に濁りはありや。否。慎太郎さんは信じられない程に純粋でどこまでも透明な心で煌めいていた。お母様は如何に。息子に寄り添う姿に崇高で神々しいとさえ思える程の美しさを感じた。ご家族もまた然り。純粋で濁りのない慎太郎さんの生涯とご家族の愛が全ての物語の始まりである。
しかし、それだけでは映画はできない。当たり前のことだが、映画を制作する人々がいるのである。
続く - モリカツ
モリカツ 制作総指揮は見城さん、監督は秋山さんである。このお二人の交わりを嚆矢として映画制作が動き出す。お二人のエピソードは様々語られているが、パンフレットに掲載されたお二人の対談から、私の感じたことを記したい。制作総指揮を全ての責任を負うものと解すれば、興行不振、評価低迷などがあろうものならこの上ない屈辱と絶望を味わうことになる。見城さんが生きるか死ぬかで映画を作ったというのは金輪際誇大な表現ではない。それ程のプレッシャーを背負い見城さんは慎太郎さん役で大いに悩む。何人か候補もあったとのこと。恐らく一定の計算も成り立ったはずである。それでも最後は秋山さんの提案を受け入れ無名の松谷さんを抜擢する。ずっと悩み続けた最後の最後で、自分の計算よりもリアルな慎太郎さんを描くための人選を優先させたのだ。
秋山さんは、誤魔化さないこと、本物であることに徹底的にこだわった。松谷さんの抜擢、奇跡のバッホームの再現、慎太郎さんの部屋の目覚まし時計など。嘘をつきたくなかったのだと思う。足すことも削ることもなく、ただただ慎太郎さんをフィルムに残したかったのではないだろうか。まっすぐに生ききった慎太郎さんを映画にする以上、自分自身も小手先の技術など一切弄さずまっすぐに映画に向き合う。対談で命をかけて映画に向き合うと覚悟が決まったと語っているが、思いを実行し最後までブレずにやり通した秋山さんに、私は憧憬と凄みを感じるのである。さらには常々正面突破を掲げる見城さんに対する秋山さんなりの回答だと思うのは考えすぎであろうか。
続く - モリカツ
モリカツ 私はお二人の映画にかける思いに気高さを感じる。商業的な成功は絶対必要であるが、それ以上に大切なものを大切にし続けたと思うからだ。多くの方がお思いのことと思うが、あえて私も申し上げたい。お二人がいなければ、慎太郎さんの生涯をフィルムに焼き付ける映画「栄光のバックホーム」は絶対にできなかった。
映画制作を知らない私でも、多くの方々が携わるのは想像に難くない。表舞台に立つのは俳優の皆さんである。多くの方が出演されているが、主役のお二人について私が感じたことを記したい。
松谷さんは、主役に抜擢されたあと演技の勉強ではなく野球漬けの日々を送る。生前の慎太郎さんとも交流されていたとのこと。恐らく松谷さんは、自分が演じた何者かではなく、慎太郎さんを映画に刻むためにどうすればよいのかを徹頭徹尾考えたのではないだろうか。自分のスタンドプレーではなく、慎太郎さんを映画に残すために一心不乱に努力する松谷さんに、私は邪念のない澄み切った心の美しさを感じるのである。秋山さんがおっしゃっているが、私も松谷さんでなければ慎太郎さんを演じ得なかったと思う。
鈴木京香さんは、なんと表現すればいいか。とにかく素晴らしかった。本当に素晴らしかった。映画の中ではまごうことなくまなみお母さんであった。慈愛、献身、強さ、優しさ。母親という大きな存在をどこまでも自然に演じられていた。慎太郎さんが亡くなった後、星空を見ながら語りかける。「慎太郎、お母さん、生きるね。」万感の思いが込められたこのセリフが、私には苦しくても辛くても人生は素晴らしいのだという讃歌に聞こえた。前に進みなさいと。後世に残る名場面ではなかろうか。
続く(次が最後) - モリカツ
モリカツ 俳優さん以外にも、カメラマンさん、美術さん、兵站部隊、エキストラさんなど裏方を支える方々の数は非常に多い。しかも、誰が欠けても映画は成立しない。それぞれが自分の役割を全うすることで映画はできるのだ。スタッフの誰かが濁れば、映画が濁る。手抜き、独りよがり、自己顕示•・・。人数が多くなればそれだけ濁りをもたらす人が入る可能性も増えてくる。ではこの映画はどうだったであろう。一つ一つの場面を思い返してみる。どの場面も眩く輝きながら、圧倒的な重厚感で私に迫ってきた。撮影に臨む皆さんの真摯な思いと張り詰めた緊張感を想念するも、濁りは毫ほども感じなかった。
私はこう思うのだ。慎太郎さんの純粋な魂のバトンを受け止めた見城さんと秋山さんが、自身の魂とも融合させ創り出した新たな魂のバトンを、映画という舞台で制作に携わった全ての皆さんと共につないだのだと。表舞台、裏方一切関係なく、数多くの皆さんが濁りを生じさせることなく最後まで純粋な美しい魂のバトンをつなぎ切った奇跡の映画が「栄光のバックホーム」だったのだと。
私は純粋なる魂の美しさが、普遍的であると信じたい。もし、この思いが正しいのならば、作品を観た人たちは映画に満ちる美しき魂の薫りを、たちまちのうちに感じ取るに違いない。そして無意識のうちにも瞬く間に自身の魂と共鳴し、感動を覚え、涙したのではないだろうか。それは映画を架橋とした慎太郎さん、製作者、観客の魂の邂逅であり、時空を超えて起こった奇跡である。