ログイン
詳細
ホワイト

カッコいいんですよ。とにかく、僕は今まで生きてきて、あんなに正直で、率直で、素敵で、魅力的な人というのはいないんです。 最後にお会いしたのは、12月9日にこの二冊(石原慎太郎短編全集 𝐈 ・𝐈𝐈 幻冬舎)を届けた時です。 だからもう、頭から離れませんね。この二冊を抱きかかえて、撫でながら、ぼろぼろと泣いていました。 こう・・・・・・抱きしめるように、泣いていました。 高校時代から、ずっと石原慎太郎さんの短編小説を読んでいたので、大好きだったので。 なんか、自分がもう、やり場のない、學校に対する怒りとか、親とか社會に対する苛立ちみたいなものを、全部石原慎太郎さんの小説で解消していく、みたいな。そういう時代があったものですから、編集者になったならば、石原慎太郎さんと仕事をする、というふうに決めていたんです。 [太陽の季節]の最初の三行というのは、彼のそれからの人生を象徴していると思うんですよね。 [太陽の季節 石原慎太郎著]より  竜哉が強く英子に魅かれたのは、彼が拳闘に魅かれる気持ちと同じようなものがあった。  それには、叩きのめされる瞬間、抵抗される人間だけが感じる、あの一種 驚愕の入り混った快感に通じるものが確かにあった。 クラッシュすることの、そしてそのクラッシュを克服する、その快感。それがやっぱり、彼の中に衝動としていつもあったんです。 小説が生まれる瞬間というのは、個人的現実と社會的現実がクラッシュする時だと言うんですよ。だからまあ、共同體の、規律や、倫理や、道徳や、法律や、慣習や、ルールというのがある訳じゃないですか。でも個體というのは、そこにそぐわないものがいっぱいある。 だから、想像力で、自己救済のために書く。そういうふうに小説を書いてきた。自分を慰撫するために書いてきた小説。 有り余る想像力で小説を書いてきた訳ですよ。だけどもう、それだけでは、彼の肉體と想像力は余りあって。観念ではなく直接、自分は現実を改修したい、リペアしたい、という思いがあって、政治の世界に入っていく訳です。 だから、小説だってそうですよ。書かずにはもう進めない、生きてはいけない、というものを書く。だから、やることも、政治的決斷というのも 自分がこれをやらざるをえない、というか、やらずには政治家として自分は失格だ、と思うことを決斷していっている。 見栄がないんですよ、石原慎太郎というのは、見栄が一つもないんです。 全く偉そうじゃない。だから、全てにイーブンです、彼は。だから、怒る時は怒るんです。それは誰に対しても同じなんです。 (ゴルフ場に)行く時に、事故が起きていて、まだ警察も來てない、という時に、 「なんだ、事故かよ。なんか渋滯しててマズいな」 と言って、僕と乗っている車を降りるんです。で、交通整理を始めるんですよ。 「はい、行って行って行って。ストップ!ストップ!はい、そっちにどうぞどうぞ」 って。 最初は、何がなんだかわからないでしょ、みんな。で、こうやって、そのうちに 「都知事だ!」 と気がつく訳ですよ。 「あれ?都知事が交通整理やってるよ」 なんて。 そういう人なんで、そこら辺の通行人も、タクシーの運転手も、総理大臣も、偉い醫者も、全く全部同じなんです。 あの人は常にみんなと同等の人なんです。率直に怒(いか)り、率直に笑う。率直に好きになれば仲良くなる、そういう人です。 憧れの人です。高校時代から、ずっと憧れ。全く、自分が憧れた石原さんが、期待を裏切ることなく、ずっと憧れた像のままでした。 よくあるじゃないですか、會ってみたら全然違ったとか、付き合っていくうちにちょっと違和感があったとか。そんなの全くないです。高校時代から憧れ続けた石原慎太郎が八十九歳までいた、ということです。 病気がどんどん進行していく中でも、 「あれも書きたい。これも書きたい」 と、どんどん原稿が來るんです。常にあの人は、書きたい衝動、書かずには、自分は生きていけない、という・・・・・・ [Mr.サンデー]2022年2月6日放送より ( 。・_・。)φ_

前へ次へ
眠〝いれぶん〟です。
トーク情報