1 名前:湛然 ★ :2020/05/07(木) 22:28:57.39 ID:EynfWHe79
2020年05月07日 18:05 J-WAVE NEWS
坂本龍一、村上 龍との交流を語る。『限りなく透明に近いブルー』に反感を持った理由とは
https://news.j-wave.fm/news/2020/05/post-5870.html
J-WAVEで放送中の番組『RADIO SAKAMOTO』(ナビゲーター:坂本龍一)。5月3日(日)の放送では近況と、40年来の友人である村上 龍について語った。
◆文化に対してのリスペクトを望む
(中略)
◆村上 龍と坂本龍一の不思議な交流
番組へは坂本の親友である村上 龍からメッセージが届いた。村上は3月18日に『MISSING 失われているもの』(新潮社)、4月8日に『すべての男は消耗品である。最終巻』(幻冬舎)を上梓した。
村上:えっと『消耗品』は(連載が)何年続いたんだっけな? すごく続いて、連載のいちばん最後の作品です。『MISSING』は、私小説みたいなんだけど私小説じゃないという不思議な小説で、自分でもこんなの書いたのは初めてだと思いました。坂本は『坂本龍一だより』を 読んでると、忙しすぎるんじゃないかなって心配です。僕は何にもしてないですから(笑)。あまり忙しくしないでほしいですね、というだけです。
このメッセージに対して、坂本はこう語る。
坂本:村上 龍は同じ龍が付いているし、辰年で同い年で、デビュー作の『限りなく透明に近いブルー』(講談社)もやっぱり気になって、すぐに読みました。当初、その『ブルー』に関しては、僕は反感すら持っていて、単純に普通の小説として読めなかったんです。書いてある内容が、わりとその僕たちの20代前半、10代終わりから20代前半にかけての生活、環境、といった周りのものが、そっくりというか……。かなり近い状況で暮らしていて、当時はそういう若い子がいっぱいいたわけですね。それで、ドラッグのやりすぎで亡くなったりした子たちもいた。そういう周辺のことが赤裸々に書いてあるので、なんだか僕はちょっと反感持ったんですよね(笑)。あんまり世間一般に触れてほしくない、晒したくない、僕たちだけの世界を人の目に晒したみたいな、そういう気持ちがたぶんあったんだと思うんです。
以来、坂本は村上のことがずっと気になっており、『コインロッカー・ベイビーズ』(講談社)が発売されたときにはすぐに手に取った。そして「純粋に小説としてすごい。読み物としてすごい」と思ったという坂本は、村上の自宅にインタビューをしに訪れたという。
坂本:40年くらいの付き合いなんですけど、あとにも先にも自宅に行ったのは、これだけ長く付き合っているのにこの1回だけという(笑)。変わった友だちなんです。普通、友だちっていうと、自宅行ったり来たりお互いに訪ねたり、結婚したって言ったら『おめでとう』と言ったり、そういうことがあると思うんですけど、ないんですよ、不思議な付き合いでね。それぞれみんなあるわけだから全然かまわないんですけど、こういう付き合いも面白いなと思いますよね。
村上の映画の音楽を担当したり、出演しているテレビ番組にゲスト出演するなどしているという坂本は、プライベートについて「数年に1回、会ってご飯を食べて、まぁ近況報告というか雑談をして、なんとなく別れるという感じ」と告白。『MISSING』を「すごい小説だなと思いました。どうすごいのかというのは、みんな読んで、自分たちで判断していただかないといけないと思う」と紹介した。
坂本:「全然わからない」っていう人もいるかもしれないし、人それぞれだと思うんだけど。ものは試し、読んでみてください。読まないとわからないのでね。みんな外出自粛で非日常的な時間がたくさんあるでしょうから、日ごろ読めない本とか、観ていなかった映画とかみんな観ているんでしょう。ぜひ読んでみてください。
(以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
指がちょっと血を流し始めるまで打楽器のように酔いどれピアノを弾け
トーク情報- じょんれのん。
じょんれのん。 1:征夷大将軍 ★:2025/01/20(月) 20:52:40.93 ID:CABQwwMa9
1960?1971年まで『NHK紅白歌合戦』に12回連続出場した歌手で俳優のアイ・ジョージさん(本名・石松譲冶)が亡くなったことが1月20日、NEWSポストセブンの取材でわかった。91歳だった。
NEWSポストセブン2025.01.20 20:18
https://www.news-postseven.com/archives/20250120_2018605.html?DETAIL
https://www.news-postseven.com/uploads/2025/01/20/ai_george03-644x750.jpg
「東京都内の自宅で倒れているところを親族が発見し、そのまま死亡が確認された。病死で、事件性はないようです」(関係者)
日本人の父とスペイン系フィリピン人の母を持つジョージさんは、流しの歌手を経て「黒田春雄」名義でデビュー。その後1959年に「アイ・ジョージ」名義で再デビューすると、1963年には米ニューヨークのカーネギー・ホールで日本人のポピュラー歌手として初めて公演したとされている。
「1959年にメキシコから来日した『トリオ・ロス・パンチョス』が作った“ラテン歌謡ブーム”に乗ってブレイク。1960年には楽曲『ラ・マラゲーニャ』で第11回NHK紅白歌合戦に初出場しました。
1961年にリリースした代表曲『硝子のジョニー』は、翌年に宍戸錠(享年86)さん主演で映画化され、ジョージさん本人も出演しています。その後も『赤いグラス』などのヒット曲を生み、1971年まで12回連続で紅白歌合戦に出場しました。
俳優としても活躍し、本人の自伝的映画『アイ・ジョージ物語 太陽の子』(1962年)のほか、長嶋茂雄さんが主演した『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』(1964年)、高倉健さん主演の『顔役』(1965年)などにも出演しています」(スポーツ紙記者)
昭和の流行歌として誰もが親しむ曲を複数作ったジョージさん。晩年も、音楽の仕事に意欲的だったという。直近までともに仕事をしていたという芸能関係者の話。
「先週も会いましたが、いつもと変わりなく元気でした。『今年は80歳の新人歌手のプロデュースがあるんだ』と話しており、本人も楽しみにしていただけに、亡くなったと聞いて驚いています。
近年は心臓にペースメーカーを入れていましたが、昨年の9月にも知り合いのスナックで、ジョージさんの誕生日パーティーを開いていました。マッコリを飲みながら、変わらない歌声で堂々と歌っていたのが印象的です」
ご冥福をお祈りします。