久々原仁介のトーク
トーク情報- 久々原仁介
久々原仁介 先日参加させていただいたイベントでのご縁をきっかけに、町田その子先生がXをフォローしてくださいました。
昔から作品を拝読してきた作家さんであり、書くことに悩んだとき、立ち止まりそうになったとき、何度も勇気をいただいてきた存在です。
町田先生の作品には、痛みを抱えた人の人生や感情が、決して乱暴に扱われることなく、丁寧に息づいている。
だからこそ、読むたびに「人を書く」ということの重みを教えていただいている気がします。
自分が本を書く側になった今、その凄さを以前よりもずっと深く感じています。
活躍を拝見するたび、「自分ももっと頑張ろう」と思わせてもらえる。
そんな尊敬する方と、こうして少しでもご縁をいただけたことが、本当に嬉しいです。
これからも、一歩ずつ、自分なりの物語を書いていきたいと思います。 - 久々原仁介
久々原仁介 優しい人間になるためには、間違っている自分をぶっ殺すところから始まる。
昔から「優しい人だね」と言われるのが苦手だった。
その言葉を向けられるたびに、僕は心のどこかで「違う」と思っていた。本当の僕はそんな立派な人間ではない。もっと身勝手で、醜くて、ときには誰かを傷つけたいと思ってしまうような人間だと、自分自身がいちばんよく知っていたからだ。
世の中には「優しい人」と「優しくない人」がいて、優しい人間は人格的に成熟した、高潔な存在なのだと思っていた時期がある。でも、あるとき気づいた。
優しい人間になること自体は、実はそれほど難しくない。
ただ「正しいブロック」の上を歩き続ければいいのだ。
こう言えば相手は喜ぶ。こう振る舞えば場の空気は悪くならない。ここで怒るべきではない。ここでは笑うべきだ。
その選択を積み重ねていけば、人は「優しい人」になれる。
少なくとも、見えている「間違いブロック」を踏まないようにしていれば、優しさを演出することはできる。
僕は、それに気づくのが少し早い子供だった。
だから、なるべく間違えないように生きてきた。相手が嫌がることを避けて、空気を読み、怒りを飲み込み、なるべく“正しい側”に立ち続けようとした。
けれど、その生き方には一つだけ問題があった。
正しいブロックを踏み続けるという行為は、途中でやめることができない。
一度「優しい人」として認識されてしまうと、人はそのイメージを当然のように期待する。だから、ふとした瞬間に間違いブロックを踏んでしまったとき、周囲は驚く。
「あなたは優しい人なのに、どうしてそんなことをしたの?」
そう言われたとき、初めて気づくのだ。
自分は“間違っている自分”を殺し続けていたのだと。
優しさとは、想像力なのだと思う。
こう言われたら相手は嬉しいだろう。こうされたら安心するだろう。その小さな未来を想像し、少しでも良い方向へ進む選択を積み重ねる。それが優しさという行為の正体なのだと思う。
けれど、それは同時に呪いでもある。
想像できてしまうからだ。
どうすれば人が傷つくのか。どんな言葉が、どんなタイミングで、どれほど深く相手に刺さるのか。優しい人間ほど、それを正確に理解してしまう。
だから優しさは、ときどき恐ろしい。
憎しみを抱いた瞬間、その想像力を悪用したくなる。
誰よりも効率よく、誰かを壊せる方法を思いついてしまう。
それでも踏まないようにする。
間違いブロックを踏みたくなる衝動を抱えたまま、踏まない側を選び続ける。
もしかしたら優しさとは、「悪意が存在しないこと」ではなく、「悪意を理解したうえで、それでも手を伸ばさないこと」なのかもしれない。 - 久々原仁介
久々原仁介 又江原様
この度は『海のシンバル』を手にとっていただき誠にありがとうございます!そんなふうに受け取っていただけて、本当に嬉しいです。
「光が届く深さの海の底」という表現があまりにも美しくて、読んでいて胸が締め付けられました。
実は、物語の最後の方に又江原さんの表現とリンクする文章があります。探してみてくださいね✨
まさに『海のシンバル』で描きたかった、静かに沈んでいる痛みや、水面越しの光を掬い上げてもらえたような気持ちです。
触れたら壊れてしまいそうなものって、きっと人の心の奥にもあって。だからこそ、ゆっくり噛み締めながら読んでいただけていることが、作者として何より幸せです。
続きも、どうか無理のないペースで。
この物語が、又江原さんの中に静かに残ってくれたら嬉しいです。 - 久々原仁介
久々原仁介 地元の山口で、『海のシンバル』が少しずつ広がっている。
書店さんが平積みしてくださったり、感想を書いてくださる方がいたり、「読みました」と声をかけてもらえたり。
自分が生まれ育った場所で、自分の書いた物語が誰かの日常に入り込んでいくこと。それは作家として、本当に特別な出来事だと思う。
そして今回、BOOK HOTEL ねをはすさんのご厚意で、『海のシンバル』のサイン会とトークショーを企画していただけることになった。
正直に言えば、僕はまだまだ駆け出しの作家だ。
名前だけで人を集められるような存在ではない。
きっと「有名作家のイベント」のように、大勢のお客様が押し寄せるわけではないと思う。
それでも、やる意味はあると思っている。
本を読んでくれた人と直接顔を合わせること。
「なぜこの物語を書いたのか」を、自分の声で伝えること。「栄光のバックホーム」秋山監督が舞台挨拶で立ち続ける姿を見て、わたし自身も、届けるための行動を止めてはならないと感じた。
そして、本を通して繋がった誰かに「会えてよかった」と思ってもらうこと。
それは、数字だけでは測れないものだと思う。
同人誌時代、文学フリマで本を手渡ししていた頃。あの頃の僕は、一冊売れるたびに人生が変わるような気持ちだった。
たぶん今も、根本は変わっていない。
僕は、自身の人生で不可能を可能にしたと言いたい。多くの人の心に残る作品を描いたんだと言いたい。
「この本を読んでよかった」と思ってくれた誰かと同じ空間で言葉を交わせるなら、その時間には確かな意味がある。
だから僕は、ちゃんと会いに行こうと思う。
山口で育った物語を、たくさんの人に届けるために。 - 久々原仁介
久々原仁介 トークショーとサイン会の準備を粛々と進めている。
チラシを作り、企画書を書き、書店さんとやり取りを重ねる。
やるべきことは山ほどあるのに、不思議なことに頭の中で何度も同じ問いが繰り返される。
「果たして、人は来るのだろうか」
作家になっても、この不安だけはなくならない。
本が出版されたからといって安心できるわけではないし、イベントが決まったからといって成功が約束されるわけでもない。
むしろ、作品を世に出したあとからが本当の勝負なのかもしれない。
ありがたいことに、今回は本屋さんのご厚意がある。
場所を貸していただき、本を並べていただき、読者と出会う機会をいただいた。
だからこそ、僕も覚悟を決めなければならない。
「読んでください」
その言葉を、自分の口で言わなければならない。
作家というと、机に向かって物語を書いているイメージがあるかもしれない。
もちろん書くことは大切だ。
だけど、それだけでは届かない。
本は読まれて初めて本になる。
だから僕は、自分の書いた本を抱えて、自分の足で立ち、自分の声で伝える。
どうか読んでください、と。
『海のシンバル』という作品は、僕にとって単なる一冊ではない。
震災のこと。
失われたもののこと。
それでも誰かを想うこと。
何年もかけて向き合い、悩み、苦しみながら書いた。
この作品の中には、確かに僕の人生の一部が入っている。
少し大げさに聞こえるかもしれない。
だけど本当にそう思う。
もしこの作品が誰にも読まれないのなら、それは僕自身が存在しなかったのと同じことなのだ。
書いた意味がないとは言わない。
けれど、誰にも届かないまま終わることは、あまりにも寂しい。
だから僕は叫び続ける。
SNSでも。
イベントでも。
書店でも。
何度でも。
僕を見つけてくれ。
『海のシンバル』を見つけてくれ。
この物語を必要としている誰かのところへ届くまで。
作家である限り、僕は声を上げ続けるのだと思う。 - 久々原仁介
久々原仁介 「命をかける」という言葉がある。
夢のために。
仕事のために。
誰かのために。
まるで特別な人だけが使う言葉のように聞こえる。
けれど、本当にそうだろうか。
僕は、命とは時間のことだと思っている。
人は毎日、少しずつ命を使って生きている。
朝起きて、仕事へ行く。
ご飯を食べる。
誰かと話す。
本を読む。
眠る。
そのすべてに時間を使う。
そして時間は、二度と戻ってこない。
つまり僕たちは、日常のあらゆる場面で命を削っている。
特別な挑戦をするときだけではない。
会社へ向かう通勤電車の中でも。
スマホを眺めている時間でも。
好きな人のことを考えている夜でも。
命は静かに減っていく。
だから、「命をかける」という言葉は、本当はもっと身近なものなのかもしれない。
問題は、命をかけているかどうかではない。
誰もがすでに命をかけている。
問題は、その命を何に使うかだ。
限りある時間を、
何に差し出すのか。
誰のために使うのか。
何を残したいのか。
何を成したいのか。
僕たちは毎日、命を支払って生きている。
ならばせめて、
「何のためにこの時間を使ったのか」
その問いにだけは、自分なりの答えを持っていたいと思う。
命をかけるとは、
死ぬ覚悟を持つことではない。
今日という一日を、
何に差し出すのかを決めることなのだ。
