【三國清三シェフの年表】
参考:『三流シェフ』とWikipediaと一部のYouTube動画
◆1954年8月10日、北海道留萌支庁管内増毛町に生まれる
・父:正(漁師)、母:亮子の7人兄弟の3男(現在68歳)
※父は鰊の闇取引で大損し、家屋敷を失っていた。幼少期から家は貧しく、父の刺し網にかかった海産物を売り歩く手伝いをしていた
◆1969年中学を卒業後、札幌の「佐藤米穀店」に配達員として勤める
・札幌グランドホテルの青木靖男(西洋料理部課長代理、当時32歳)に出会い社員食堂で働きホテル側の洗い場で皿洗いや鍋磨きを始める
その後、特例で準社員として採用される
・「原生林」のメインダイニングへ配属され1年後にはソースの味を決めるストーブ前の担当に
◆1971年(18歳)斉藤総料理長から紹介状を書いてもらい、帝国ホテルの村上さんへ会いに行くが、不景気のため正社員ではなく洗い場のパートタイムとして働きだす
◆1974年(20歳)
・帝国ホテルの洗い場に入って2年が経つが、パートから社員への道が突然閉ざされる
・10月に村上さんから声が掛かりスイス・ジュネーヴの日本大使(軍縮担当)の公邸料理長に就任が決まる
◆1974年〜(約3年9カ月)小木曽大使の料理長を務める
・夏休みの1か月間を利用してローザンヌ・クリシエ村の「ジラルデ」で雑用開始。天才シェフ、フレディ・ジラルデと出会い、スポンタネ(即興料理)に触れる
・大使の任期の終わりにジラルデと正式雇用契約を結ぶ。結局「ジラルデ」では公邸料理長の時代から5年間も修行を行うことに
◆1980年、フランスへ渡り約2年間、名店で武者修行を
以下修行順は不明
・トロワグロ兄弟の「トロワグロ」(三ツ星レストラン、客席数100席ほど)でデシャップ(各部門から上がってくる料理を皿に盛りつける担当)を任される
・ルイ・ウーティエの「ロアジス」(カンヌ近郊にある)
※この頃の三國の月収は5000フランから8000フランあったが、自己投資のためいつも文無しに、最初の給料の入る1か月間をコートダジュールの海岸で野宿でやり過ごした
・ジャン・ドラベーヌ(国宝級のシェフ)の「カメリア」(二つ星)でソーシエ(ソース作り)を担当する
・アラン・シャペルの「アラン・シャペル」(三ツ星レストラン、リヨン郊外にある)店ではデシャップを任される
※シャペルから盛りつけた料理に対して「セ・パ・ラフィネ」(洗練されていない)と言われ自分のルーツが日本にあることに気が付く。天才の料理を真似た優等生の料理から、日本人として、自分にしか作れないフランス料理を目指すことに
◆1982年12月に8年もの料理修行を終えて帰国(28歳)
◆1983年3月、市ヶ谷の「ビストロ・サカナザ」で雇われシェフに
※この頃、角川書店の編集者だった見城先生と三國シェフは出逢う
※店は「ジラルデ」スタイルで、その後、店の経営についてオーナーとすれ違い、1年8カ月で店を辞めることに
◆1985年3月に四ッ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店(全て借金で準備し、厨房6名、ホール12名の計18名、40席でスタート)
・「皿の上に、僕がある。」を出版(5日で120皿を作った料理写真集)半年間、客が入らない状態から何カ月も先まで予約が埋まる店に
・1990年、開店から5年が過ぎたころ、アラン・シャペルが来店しゲストブックにメッセージを記入
ジャポニゼ(日本の食材や食文化を取り入れて)によりフランス料理の可能性を広げたことを絶賛する
※この2か月後にシャペルは亡くなるのだが「セ・パ・ラフィネ」に対する回答が無事済む
・各国の高級ホテルでミクニ・フェスティバルが大成功
※動画『情熱大陸』参照(ギラギラした三國シェフが映っている)
https://youtu.be/Ivg4OUbqBLM
・2007年にミシュランガイド東京版が発刊されるも「オテル・ドゥ・ミクニ」の名前は無かった
※このいきさつは『三流シェフ』を読んでくれ
◆2015年 フランス共和国レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章(日本人初)
推薦人:ポール・ボキューズ、ジョエル・ロブション、アラン・デュカス
◆2022年12月28日
「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店
※この時、直営店、プロデュース店を含め13店舗を経営し、従業員は165名もいた
◆2024年?~ 「オテル・ドゥ・ミクニ」跡地にカウンター8席のみの「三國」をオープン予定
前略 見城先生
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