ikutama4日前見城徹見城徹人間は生まれた瞬間から死のキャリアである。ゴールは死であって、それを避けることは誰も出来ない。つまり、死ぬために生きることになる。どうせ死ぬんだけど、それまでをどう生きるか?それが人生だ。僕は何をしていても、今やっていることは死ぬためにやっているんだという感覚から逃れることが出来ない。それでもやる。やり切る。苦しくて辛い道を行く。それこそが[死]が確定している日々を充実させるんだと思っている。僕は死ぬために今日を生きる。282638
ikutamaikutama4日前“死”は「生きた事実」を消せないが、生は死の全てを打ち消す。闇は光を消せないが、光は一瞬で闇を消す。命に限りはあるが、「いつ、どうやって死ぬか」は、決められていない。それを探し続ける。それこそが“生きる”ということ。26
ikutama3日前見城徹見城徹諦めた方が楽になるんなら諦めたらいい。僕は諦めたら後悔しか残らない。だから耐えるだけ耐える。粘るだけ粘る。苦しむだけ苦しむ。それが僕が選択した生き方だ。だから、いつも切ない。1711938
ikutamaikutama3日前諦める、諦めない、は自分で決める。誰か、何か、のせいにしない。思うようにならなかった瞬間、“自分は”どうしたか。苦しくても前へ出た“あの時の自分”に負けていないか。25
ikutamaikutama2日前“善良”は、他者の視点と自己検証の結果、磨かれる。独りで善良な人にはなれない。全ての人に対して善良であることもできない。誰のために動き、その結果、どうなったか。ぶつかって形を自覚し、変えていくしか無い。23
ikutama1日前見城徹見城徹カドカワ時代に一度だけ野村秋介さんと電話で話したことがある。30年ぐらい前だ。僕宛てに野村秋介さんから名指しでかかった来た。ある依頼をされたのだが、僕はそれを辞退した。僕には荷が重かったのだ。その数年後、野村秋介さんは自決した。「そうか、ではいい」そう言った野村秋介さんの声のトーンが今でも耳に残っている。113010
ikutamaikutama1日前「そうか、ではいい」過酷な道を歩む人は、他人と交渉はしても、説得はしない。高杉晋作のようだ。野村秋介は、行為の善悪を懸念せず、悲痛な日を送り、休息を願わず、他の者よりももっと熾烈に燃焼した。そして最後に銃口を他人ではなく、自分に向けた。野村は満足したのだろうか、絶望したのだろうか。それとも満足と絶望は実は同じものなのか。今の私にはまだ理解できない。13
ikutama10時間前見城徹見城徹僕は中庸が嫌いだ。ミドルが嫌いだ。一般論が嫌いだ。つまり、あっちもいいけどこっちもいいが嫌いだ。極端に言えば民主主義も嫌いだ。共同体的な善悪も嫌いだ。自分の身を切り刻まない評論家も嫌いだ。評論とは自分の血を噴き出して対象を語るものだ。その意味で小林秀雄や吉本隆明は偉大だと僕は思っている。つづめて言えば僕は安全地帯にいてモノを言う人が嫌いなのだ。そういう僕が不愉快な人は僕のトークを読まないで欲しい。僕のトークに来ないで欲しい。少なくとも僕は僕の755のトークに命懸けなのだ。354237
ikutamaikutama10時間前自分が、自分ことについて、目前の相手に主張するならば、配慮に欠けることはあっても嘘は無い。SNSは自意識を増幅させ、拡散する。『言葉というのは持たざるものが生きるための最後の武器なのだ(俵万智)』。言葉という武器はSNSによって、あっという間に凶器に変わる。自らの痛みを伴う主張には真実がある。小林秀雄は、福沢諭吉の「学問の私立」のこだわりについて『「私立」は「痩我慢」である。…痩我慢は私情に発するであろうが、我慢である限り、単なる私情ではあるまい…私情とは公道との緊張関係の自覚であろう。』と書いた。私情と我慢には真実がある。7