
修治のトーク
トーク情報- 修治
修治 ドラマ版のファーゴは、やはりシーズン1が一番おもしろい。
本筋にあまり関係が無さそうに見えて、実際には関係がある細部や、実際に本当に全く関係ない細部まで...全てがおもしろく、つまりそれはノア・ホーリーのセンスが、自分の好みにバッチリ合ってるってことだろう。
エピソード4の、アウトドア用品店でレスターがワゴンセールの特売品の靴下のセットを買おうとしたら、パッキングされた商品の半分は婦人用でどれがそうだか分からないから〝客が値段を決めろ〟と店主に言われ、レスターが2ドル・3ドル・5ドル...と値段を吊り上げていっても店主は無反応。
挙げ句の果てに〝55ドルのショットガン(靴下のおまけとしてw)〟を買わされる羽目になるといった、あぁいうバカばかしいシーンが自分は大好きなのだ🩵 - 修治
修治 バロウズも〝まともな〟というか、面白い小説書けるんだ…という作品。短編には素晴らしい作品がいくつかあるが。
日本ではバロウズは、あまりにも『裸のランチ』以外の作品を読んでる人が少ないので、あれでマイってしまい、他の作品に手を出さない人が多く〝バロウズが好き〟なんて言うと、変人扱いされるかorよく分かりもしない文章を分かった気になってる人…扱いされかねないwww
日本の横光利一や高見順などの私小説家の作品とバロウズは、扱っている題材は結局は同じだ。自分からすれば、味噌汁かコーンポタージュかの違い程度だ。
たった一つの違いは、所謂〝私小説家〟と呼ばれる作家達と違い、バロウズは日常を扱った描写の中に、ほとんど自分の心境を描かない。そしてそれは当たり前だが、バロウズが意図してやっている事なのは、容易に想像出来る。
だから作品の中で、クスリ買おうが、オトコを買おうが、レストランのメシが最悪にマズかろうが、ただ自分の日常を淡々と綴っただけの〝ジャンキーの備忘録〟みたいな評価をされてしまうことがある。
しかし、自分は初めて読んだ時から、作品のそこかしこに、さりげなく挿入されているバロウズ特有のユーモアが好きだった。
ここまでは『ジャンキー』についての、自分の想い。
その点『クィア』は驚くほど、まともな小説だし、自分はとても好きな作品。ケルアックの『路上』よりも好きかもしれない。
『クィア』は他の人に〝傑作だよ〟とか〝是非読んだ方が良いよ〟とは言えないけれど、自分は大好きな作品だったし、この先に何度か読み返すことになるだろう。
ネタバレ関係無い作品だから、なんとなく読みたくなって何度もページを開く小説なのだ。あくまでも自分にとっては…だけれどw 修治 修治修治 ブローティガンや著書の『アメリカの鱒釣り』に関しては、以前もこちらのSNSに書いた事があった。
自分はブローティガンの作品で初めて読んだものは『西瓜糖の日々』だった。
初見の正直な感想は戸惑いだった(笑)あれを小説と思って読んでしまうと、誰しもが戸惑ってしまう。文学的に有名、かつ評価されている作品にも関わらず、面白いと思えないのは自分が悪いのか?或いは作品自体が実は??な代物なのか?で少しの間、困っていた時期があった(笑)
同じ様な困惑を抱いた作品というのは、自分の中に幾つかあって...ここに挙げてみると
瀧井孝作の『無限抱擁』
ジャン・ジュネの『泥棒日記』
ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』
ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』
数年後に『泥棒日記』と『裸のランチ』は大好きな作品になっていたのだが、それはまぁ...つまり...やや書きにくい事ではあるのだが、自分自身が『泥棒日記』や『裸のランチ』の登場人物達と同じ経験を重ねた後に、初めて作品の中の表現やら何やら、色々な事が理解出来て好きになったわけで、そういった経験無しにアレを好きになれる人というのは、自分の正直な感想では、いないんじゃないか...と思う。
無限抱擁と嘔吐は何年経っても好きになれずにいる(苦笑)
まず自分は行儀が良いわけでも無いし、法律や条例を何の疑いもなく信じて守る方ではないし、おまけに何人もの女性と同棲してきたから、無限抱擁を好きになる事は今後もおそらく無い(女性云々は無限抱擁を読めば意味が分かる)
次に自分は哲学というものが、よく理解出来ない質だから、嘔吐を好きになる事も無いだろう。
話しはブローティガンに戻るが、西瓜糖の日々は小説ではなく、詩だと思って何度も読み直しているうちに、段々好きになってきた。何度も読み返せる状況にあるんだな、我が家は。何故なら我が家のトイレには常に『十九歳の地図』と『西瓜糖の日々』と『アメリカの鱒釣り』が置いてあるから。
アメリカの鱒釣りは、特に良い文章だと思うし、気に入っている箇所も幾つかある。
何よりも特筆すべきは翻訳者の藤本和子の素晴らしい表現力と翻訳の巧みさにあって、よく言われる事に〝時に原文以上の素晴らしさ〟と言われる程。これは読んでいない人が見ると眉唾に思うかもしれないが、読んだ人なら納得出来ると思う。
なにしろ藤本和子は、柴田元幸と村上春樹が尊敬する翻訳家だ。
村上春樹は、自分はまぁどうでも良いが、柴田元幸が...となると話しは別。柴田元幸のアメリカ人ユダヤ系作家の作品の翻訳の素晴らしさは、自分は中高生の頃から知り尽くしている。
どれだけ柴田元幸が翻訳した作品で、アメリカ文学の楽しさを教えてもらったか分からない。
また同じ作品を柴田訳と、別の翻訳家の訳で読み比べてみた事も幾つかある。そういった上での自分の感想がある。
そろそろ仕事に出かけるので、この続きはまた気が向いたら書こうかな。修治 修治修治 昨夜は仕事後に、家の近所の居酒屋で飲んだ。寒かったけど、いつも頼む熱燗🍶は頼まずに、ビールとレモンサワーばかり頼んだ。
ここでは毎回、博多鉄板焼肉を頼む。調理も簡単だし、スキレットあれば良いから自分の店でコレ出しても良いな。中上健次の『十九歳の地図』をパラパラと読みながら飲んだ。
中上の『十九歳の地図』は正直言って、自分は一度たりとも、おもしろいと思った事は無い。ただ物語の背景や表現とか、会話の生々しさがリアルで(自分も作者と同じ境遇の出身だから)そこに惹かれていたけれど、何度も読んでいるので、ちょっと最近飽きてきたw
『十九歳の地図』の〝かさぶただらけのマリヤさま〟のモデルは作家の小林美代子だった…というのは、つい2、3年前に知った。中上は知合いというか、作家仲間をモデルにして作品に登場させて、小林に激怒されたらしい。そういうところは島崎藤村みたいだな…と自分は思った。
以前、友人に〝『十九歳の地図』をつまらないと言いながら、なんでそんなに何度も読んでるの?〟と聞かれた事がある。
もうそれは・・作家の勝ちって事ですよ(苦笑)...とだけ答えた。そうとしか言いようがない。
紀州三部作は素晴らしい完成度で、自分も好き。三部作の数年後に書いた『千年の愉楽』など、力みというか張りつめたモノも消えたのか、昇華したのか...人間観察の鋭さの中に描かれるユーモアも加わって、特に好きな作品だ。
自分は色々と読んだ上で…ウィリアム・フォークナーを超える作家って、そうそういないんだなぁ〜と思う。中上健次もフォークナーが好きだった様だ。
自分の中では中上健次<室生犀星<<…<スタインベック<テネシー・ウィリアムズ<フォークナーというランキング。コレはあくまで自分の好みの順位。
つまり自分はアメリカ文学が好きなのかな?ユダヤ系アメリカ人作家の作品も好きなのが多いし。