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    バート・ランカスターが終始笑っている反面、クーパーは険しい表情を崩さない。

    どう見ても貴族出身に見えない夫人や、出癖の悪い女性反乱軍兵士など、暑苦しいメキシコの雰囲気に華を添えている

    こんなに面白い娯楽作品も配信なし

    やれやれ。。

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    とにかく映像に魅せられました。

    本作はファシズムが台頭してきたイタリアが舞台。
    マルチェロがトラウマからの脱却に選択したのはファシズム党への加入でした
    今で言う「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」など、自分達に都合の良い情報だけの世界で暮らすマルチェロ

    『極度の忘我とは極度の期待に他ならない』
    【悪の華】の一文のように、自分の人生を社会が「正常」だと認めるその日まで、ファシストとして活動しながら、ただひたすらその到来を待つマルチェロ

    そして第二次世界大戦の末期
    茶番に加担した人間に対し、空虚な現実を突きつける非情さに息を呑む

    孤独を愛する人間だけが人生の舵を取れる事を、若干30歳のベリトリッチ監督が魅惑的な映像で紡ぐ本作

    今観るべきヨーロッパ映画は?と聞かれれば、僕なら迷わずこの作品を推します。

    ※ある方のSNSに触発されて再鑑賞しました。

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    音楽を語る事の難しさは、映画や小説の感想を述べるどころではない。
    聴いている間の沈黙や、聴き終えた後の感動を言語化するのは至難の業だ。

    そこで【タクシードライバー】のメインテーマです。
    どこに居ようが、これが聴こえただけで一瞬で夜のNY、とりわけ裏通りの冷ややかな風景を思い出す。

    ベトナム上がりのトラビス
    アメリカに戻り、タクシー運転手の職にありつけた。
    ベトナムを知る人間は、でっち上げの孤独を語る人達とは違い、最後まで内面を曝け出さない。

    そんなキャラクターの心情を、このメインテーマは音で伝えてくれます。
    サントラは大袈裟でなければないほど、映像の付属品として確立し、相互作用するものです。

    https://youtu.be/rU30e1oeV7k?si=td5Nn1cJJG2TufFl

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    話題の【ストリート・キングダム】
    久しぶりに劇場で観たいと思える邦画だったので、初日レイトショーに行ってきました。

    そこら辺に散らばっていた小さなエネルギーが集まってくる前半と、これからって時に不祥事が原因で分解する後半の高低差が心地良い。

    まぁ実のところ既にピストルズがロンドンでやっていた事に似ている。
    ピストルズはマルコムとヴィヴィアンというスポンサー、というか詐欺師がいたからツアーも出来たしレコードも出せたが、シドの逮捕とロットンの解雇で呆気なく終わる。
    洋の東西を問わず、インディペンデントでやりたい事だけをやり続けられる無敵モードなんて儚いもの。
    しかし、メジャーと自主製作を往来しながら、やりたい事を貫く人もいるのも確かだ。

    周期的に訪れる昭和カルチャーブームの一つとして捉える向きあるけれど、脚本のクドカンは懐古する薄っぺらい言説に強烈なカウンターパンチを食らわしてきます。
    貴方達が語る「共通の過去」は、そんなに良いものでしたか?と。

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    先日観た爆弾テロの映画
    小道具と伏線が効いていて、日本映画では久しぶりにスリルを感じる作品に出会えました。

    サスペンス映画は犯罪がテーマですが、大きな音や刺激的なシーンに溺れず、いかにスリルを感じさせられるかが監督の手腕なのに、残酷さがエスカレートしていく作品は観ていくうちに興醒めする。
    つまり、映像技術に頼り過ぎてミステリー精神がないものはつまらない。

    これは派手な爆破シーンもあるが、ミステリー精神を理解したハッタリが底にある役者二人の取り調べ室での攻防が見もの。
    偽物の狂気の謎が次第に露わになる際の駆引きは白眉でした。

    また、冒頭のタイトルロールは『セブン』、取り調べ室のシーンは『ユージュアル・サスペクツ』へのオマージュだろうが、監督が「ただ楽しいから」やってる、又は、「やりたいからやってる」事が解る。
    要するに、誰かに届けたいという傲慢さとの違いを認識しているって事なんでしょうね。

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    「昔、仲間がいて、そいつが死んだ時に」
    探偵物語は最終回だけテイストが違うが、その他は優作と成田三樹夫とゲストの遊びを観ている様なもの。
    ただ、この「遊び」は社会の隅っこで逞しく生きるアウトローにフォーカスを当てているので、ハッピーエンドとは程遠い終わり方が殆どだ。
    個人的にはホーン・ユキと水谷豊が出演した回が印象に残っています。
    特にホーン・ユキのファムファタールな演技は、「可愛い悪魔」のバルドーを彷彿させる。

    放送禁止用語の洪水にノーヘルのバイク走行は当たり前
    新宿駅の撮影はエキストラなしでゲリラ的に行っているからか、一般人がカメラを見ながら避けているシーンも多く見られる。

    昭和の街並みを観るのもいいし、愛おしい脇役陣の工藤チャンとの絡みを見るのもいい。
    行儀のいい現代のドラマでは味わえない、粗野で切ない探偵モノ。

    あっ、ハナ肇と松田美由紀の回も良かったなぁ。

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    ディカプリオ演じる元革命家のボブ
    彼の中で闘争はとっくに終わっていて、今では子育てに奔走しながら森の奥で暮らすアル中のダメ親父。
    しかし、ある事件をきっかけに軍隊から追われるハメになる。

    現役軍人のロック・ジョーは力ずくで過去を清算しようとし、元革命家は自己反省の為に隠遁生活を送りながら、マリファナと酒の日々を送る。
    ボブがどうやって生活費を稼いでいるのかが不思議だけど、まぁその辺りはスルーします。。
    この『ワン・バトル・アフター・アナザー』の面白みは、権威の象徴であるエリート軍人より、頼りない父親像ながら現代的感覚は寧ろボブの方に備わっているという皮肉が、シリアスなテーマながら完成度の高い娯楽作品の肝になっているという点ですかね。

    ディカプリオはスコセッシより、PTアンダーソンやタランティーノと組んでいる方がいいかも。
    前作の『キラーズ・オブ〜』も観たけれど、今作の方がずっといい。
    『暗殺の森』や『イル・ポスティーノ』のセンチメンタルな結末とは違い、髪の薄い小太りのディカプリオだから、革命家の成れの果てをユーモアと悲哀で表現する事に成功したのかもと思うから。

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    原作に沿った作りではあるけれど、ストーリーとは関係ないエピソードや小説の「その後」まで映像化したのは、間違いなく監督のエゴだろう。
    まぁ映画と小説との違いをアピールしたいのは解るけれど、原作を好きな人には疑問が残るだろうし、作家バロウズを知らない人には難解かなぁと感じます。

    この作品はダニエル・クレイグに尽きる
    乙女でジャンキーなクレイグが振られ続けるだけでも面白く愉快なのに、セクシャリティと禁断症状に苦悩するリーの演技は本物の孤独を知っていないと出来ないんじゃないかな。
    それほどまでにクレイグはバロウズでした。

    作家自身のエピソードが下敷きになっている今作ですが、解釈の余地を観客に与えた方が楽しめたんじゃないかなぁ思うと、少し残念ではある。

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    修治修治
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    映画のレヴューサイト見て、読んでみると...シップ・アホイにリーが2年後に戻って来て旧友と再会し、アラートンの現状を聞いた後に、煙草吸いながら酒を飲むシーンでカメラのアングルが切替わり、シップ・アホイの外の通りから、BARの中の2人を写すシーンになる。

    その後で、リーが自宅の寝室のベッドで脂汗かきながら、横になってるシーンが映し出される。
    その先は全てリーの妄想の中での出来事なのに、レビューの多くに『リーは晩年、老人になり、その老人になった時でも、当時のアラートンと過ごした時間が忘れられないままに、ベッドの上で死んでいく』なんて感想が多くて、ビックリした😅
    つまり原作でも映画でも(映画は観た人に勘違いさせる要素が満載だがw)実際の物語は、リーとアラートンが一緒にジャングルにヤヘを探しに行って、そこから別行動を取って、2年後にリーが1人でメキシコシティのシップ・アホイに戻ってきたまで、のところで話しが終わる…という時間軸だ(そこから先は、映画の方はリーのモルヒネ中毒による妄想)

    劇中でリーがモルヒネ中毒で、医師から『やめないと死ぬぞ』と警告されるシーンなどが挿入されているのだが…
    最後の最後はリーの姿を、晩年のバロウズそっくりの格好にさせているんだから、バロウズの16、17歳の頃からファンだった監督のルカ・グァダニーノの【バロウズへのオマージュ】だと気づきそうなモノだが、でもそれは原作者の経歴や作品や姿を読んで、見て知っている人しか分からない事だ。

    だからこそ小説に無いシーンを付け足す事で、バロウズに関するアレコレを知らない観客を置いてけぼりにしてしまっているのが、映画作品として残念な部分だな、とは思った。
    観た人が、リーが最後に老人になってベッドでアラートンを想いながら死ぬ...なんて勘違いしてしまったのも無理ないのか、と思う。
    そもそも原作では、リーが老人になるシーンなど無いのにね😅
    原作ではリーはアラートンとジャングルに行き、そこで別れて別行動を取ることになっている。

    ただ映画は3部構成だけど、第1章は最高に良かった。
    ストーリーはほぼ忠実に原作を再現していたし、ゲイ御用達の2つのBARの雰囲気や、酒や食い物やファッションの描写も良い。
    驚くべきはダニエル・クレイグの凄いプロフェッショナルな役者として仕事ぶりだ。かなり生々しく描写されていて、2人の俳優はよくあそこまでの演技が出来たなって思ってしまった。ちょっとアレは凄すぎたな。こう書けば、自分が何を言いたいのか?おわかりだろう。

    第2章は監督の創作、オリジナリティが入っていた。でもそこは良い、別に原作まんまの映像化じゃなくても。
    小説の方は結局リーはヤヘを入手出来ず〝こんな所にいても時間の無駄だ〟と悟り、メキシコシティに帰還するわけだが、映画ではコッター博士夫妻とリーとアラートンはヤヘを服用して、バッド・トリップの後で、リーとアラートンの2人の魂が触れあうような描写になっているw
    しかも原作と映画ではコッター博士夫妻の性別が逆になっていた😅

    問題は第3章の『メキシコシティへの帰還』の部分で、細かい設定や台詞は小説の中のモノをそのまま使っていたけれど、映画の方は、リーとバロウズが混在してしまう描写になっていた。
    つまりクィアだけじゃなく、他のバロウズの作品や彼の生き様がMIXされた映像になっていた。ここも監督のバロウズへのオマージュだ。ただそれを純粋に『小説クィア』の映像化に期待したファンに観せるのはどうなんだろう??

    自分は楽しめた作品だったけれど、映画観た後の観客に『色々と辻褄合わせしたかったら、バロウズに関するアレコレも読んで知って欲しい』というプレッシャー(それに気づかず、なんだかよく分からない映画だったな、って思わせてしまう可能性もある)は余計なモノの様に感じてしまったかな。