見城徹見城徹 ⬆︎ さて、この写真の話です。隣のオペラ界を代表するプリモ・バリトン、桐朋学園大学教授の大島幾雄さんとは清水市吉川にあった小糸製作所静岡工場の社宅で子供時代を一緒に過ごしました。同じ棟のアパートの同じラインの大島幾雄さんの家が3階、僕の家が1階でした。小学校生、中学生時代、一年上の学年の幾雄さんは僕とよく遊んでくれました。母親同士も仲が良く、僕は幾雄さんの家に上がり込んで時間を過ごしたものです。勉強が凄く出来、音楽の才能にも溢れていた幾雄さんは僕の憧れでした。10年以上前、大島幾雄さんの二期会オペラの舞台パンフレットに頼まれて「懐かしい兄よ」(集英社文庫「編集者という病い」所載)という文章を寄稿させてもらいましたが、どうしても公演に行けず、再会は果たせませんでした。
それが今日、実現した訳です。約50年振りです。もう泣きそうでした。しかも僕が幾雄さんが主役だと知ったのは舞台に向かう車の中です。あの清水市の社宅の片隅で無心に遊んでいた二人が50年して舞台の主役と主催者側の大事な客として相まみえる。あのマッチ箱のような社宅から二人とも遠くまで来たんだなあ、と思います。これを奇跡と呼ばずして、何と呼びましょう。
*「大事な客」という表現をお許し下さい。
Hiroaki Kurahashiのトーク
トーク情報Hiroaki k - Hiroaki k
Hiroaki k 共同体から滑り落ちる者の自己救済。
蓮を見ると私は心を落ち着かせることが出来る。蓮の花は、泥水の中からしか立ち上がってきません。真水であったらなら、蓮は立ち上がって来ない。泥がどうしても必要なのです。泥とは、人生になぞらえれば、つらいこと・悲しいこと・大変なこと。蓮の花とは、まさに人生の中で花を咲かせること。そして、その花の中に実がある。つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることがない。泥水が濃ければ濃いほど(水が汚ければ汚いほど)綺麗な花が咲く。汚れた泥に絶対に染まらない。立ち上がってきた蓮の花というのは、花すべてがものすごくきれいに咲いています。つまり、どんな悩み・苦しみ・大変なことの中から立ち上がってきても、そこで泥を突き抜けて花を咲かせた人は、必ずや悟り、美しいものを自分の手に入れる。美しい花を咲かせるためには泥が必要。仏教的な考えだが本当にそう思う。