ヤスナガのトーク活動再開
トーク情報- ヤスナガ
ヤスナガ 2.「標準化」とは、仕事をアルゴリズムに変換すること
標準化とは何か。
それは、仕事を以下の形に落とし込むことである。
・手順が明確に定義されている
・判断基準が言語化されている
・例外処理もルールとして整理されている
・成果物の形式が固定されている
つまり、**「この条件なら、こう処理する」という“分岐の集合体”**になっている。
彼の仕事も、まさにそうだった。
過去の事例を参照し、チェックリストに照らし、
「該当」「非該当」「要注意」に分類し、リスクを文章化する。
そこには、感覚も、直感も、曖昧さも、ほとんど入り込む余地がない。
それは、長年にわたって「品質を担保するため」に磨き上げられた、完成度の高い業務設計だった。
だが同時に、こうも言える。
標準化された仕事とは、すでに“アルゴリズム化可能な仕事”である。
AIは、人間の代替を“考える”のではない。
すでに構造化された仕事を、そのまま実行しているだけなのだ。 - ヤスナガ
ヤスナガ 3.なぜ「優秀な専門職」ほど、最初に消えたのか
彼の周囲から、少しずつ人が減っていった。
無能な人間が切られたわけではない。
むしろ、評価が高く、ミスが少なく、業務を正確に回せる人間ほど、真っ先に配置転換されていった。
理由は、冷酷なほど合理的だった。
「その人の仕事は、最も正確にAIが再現できる」
優秀であるほど、仕事は整理され、手順は明確で、属人性が少ない。
つまり、「誰がやっても同じ結果が出る」状態に近づいている。
これは、組織にとって理想的な人材像だった。
だが、AIにとっても、最も“学習しやすい仕事”でもあった。
逆に、
・説明しづらい判断をする人
・ルールの外で意思決定する人
・「そもそも、この仕事は必要か?」と問い続ける人
こうした人間の仕事は、構造化されていない。
だからこそ、AIには扱いづらく、最後まで人間の領域として残りやすい。
皮肉なことに、
組織が「理想の専門職」として育ててきた人材像こそ、最も早く代替されたのだ。 - ヤスナガ
ヤスナガ 4.「効率化」の果てに、仕事は“誰のものでもなくなった”
彼は、自分の仕事を誇りに思っていた。
専門性を磨き、経験を積み、誰よりも正確に、誰よりも速く判断できるようになった。
だが、その成果は、ある日、彼自身から切り離された。
業務フローはAIに移され、判断ロジックはモデル化され、
彼の「考え方」は、いつの間にか“機能”に変換されていた。
これは、効率化の必然的な帰結である。
人間の仕事を、
・誰がやっても同じ品質に
・ミスなく
・速く
・安く
実行しようとすれば、
その仕事は、個人の中から組織のシステムへと移管される。
そして最終的に、人間の外部にある知能——AI——へと引き渡される。
彼の仕事が奪われたのではない。
「彼の仕事だったもの」が、もはや“彼のものではなくなった”だけなのだ。 - ヤスナガ
ヤスナガ 5.人間に残されたのは、「処理」ではなく「定義」
ここで、はっきりしてくる。
AIが奪ったのは、仕事の“量”ではない。
仕事の“主導権”である。
・何を調べるか
・どう分析するか
・どの選択肢を並べるか
これらはすべて、AIが決める。
人間は、その結果を受け取り、形式的に確認し、責任を引き受けるだけ。
つまり、人間の役割は、
「処理する者」から「定義しない者」へと縮退している。
彼がプロローグで感じた空虚さの正体は、ここにある。
仕事をしているはずなのに、
「何を仕事とするか」を決めていない。
自分が考えたのではなく、
自分が選んだのでもなく、
ただ、用意された答えに署名しているだけ。
それは、働いているようでいて、
もはや“仕事の主体”ではない状態だった。 - ヤスナガ
ヤスナガ 1.下請け化とは、権限が“上流”から消えること
一般に「下請け」という言葉は、立場の弱さや報酬の低さを連想させる。
だが、本質はそこではない。
下請け化とは、意思決定の主導権を持たない状態のことである。
・何を問題として扱うかを決めない
・どの情報を使うかを選ばない
・どの選択肢を並べるかを設計しない
ただ、与えられた枠組みの中で処理を行う。
彼の仕事は、まさにそうなっていた。
AIが論点を定義し、
AIが評価軸を設定し、
AIが結論候補を提示する。
人間は、それを「確認」し、「承認」するだけ。
ここには、判断の“出発点”も、“設計権”もない。
上流を握っているのは、AI。
人間は、その下流で作業する存在になっている。
これが、「資格がAIの下請けになる」という構造の正体である。 - ヤスナガ
ヤスナガ 2.責任だけが人間に残るという歪み
奇妙なことが起きている。
判断しているのはAI。
分析しているのもAI。
だが、最終的な責任を負うのは人間だ。
彼の名前で承認された書類には、何かあれば、彼が説明を求められる。
「なぜ、この結論を採用したのか」
「そのリスクを、どう認識していたのか」
しかし、彼自身は、判断のロジックを“設計していない”。
設計したのは、モデルであり、アルゴリズムであり、システムだ。
それでも、責任は彼に帰ってくる。
ここに、決定的な歪みがある。
権限はAIに、責任は人間に。
資格を持つ者は、意思決定者ではなく、
**“責任を引き受けるための名義人”**へと変わる。
それは、権力を持たないのに、責任だけを背負う立場——
すなわち、下請けの構造である。 - ヤスナガ
ヤスナガ 3.なぜ組織は、この形を選ぶのか
この構造は、偶然ではない。
企業にとって、極めて合理的だからである。
・判断はAIに任せれば、速く、正確で、ばらつきがない
・しかし、法的責任や社会的説明責任は、まだAIに持たせられない
・だから、最終署名だけを人間に残す
これは、リスクを人間に押し出しつつ、効率は最大化する設計だ。
経営の視点から見れば、こう言い換えられる。
「知能は資本化し、責任は人件費として処理する」
知的生産の中枢は、AIという“資産”に集約する。
一方で、説明責任・法的責任・社会的非難の受け皿は、人間に持たせる。
資格を持つ人間は、まさにこの“受け皿”として最適だ。
・制度上の正当性を担保できる
・外部に対して「人が判断した」と言える
・トラブル時に、個人に責任を帰属させられる
だから、資格保有者ほど、このポジションに配置されやすい。
皮肉なことに、
資格は、専門性の証明ではなく、**「責任を背負わせるための適格性」**になっていく。 - ヤスナガ
ヤスナガ 5.資格は、なぜ「下請け」に最適なのか
では、なぜこの役割に、資格を持つ人間が選ばれるのか。
理由は明確である。
資格とは、本来、
「この人は一定の判断能力を持つ」ことを社会的に保証する制度だった。
だが、AI時代において、その意味は反転する。
「この人は、制度的に責任を引き受けられる」
つまり、資格は、
判断するための免許から、責任を負わされるための免許へと変質する。
企業にとって、これは極めて都合がよい。
・判断はAIに任せられる
・しかし、外部には「有資格者が承認した」と説明できる
・問題が起きれば、個人の判断として処理できる
資格を持つ人間は、
**AIと組織のあいだに立つ“緩衝材”**になる。
だから、資格は、
最前線の知能ではなく、最前線の責任として使われる。
これが、「資格はAIの下請けになる」という言葉の、最も冷酷な意味だ。