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TETSUO

「世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れている。世界はどうあっても存在しなければならないからだ!しかし、なぜ?  なぜなら、迷界としての世界が存在することによって、はじめて悟りへの機縁が齎されるからである。世界が存在しなければならぬ、ということは、かくて、究極の道徳的要請であったのだ。  それが、なぜ世界は存在する必要があるのだ、という問いに対する、阿頼耶識の側からの最終的な答えである。 もし迷界としての世界の実有が、究極的な道徳的要請であるならば、一切諸法を生ずる阿頼耶識こそその道徳的要請の源なのであるが、そのとき阿頼耶識と世界は、すなわち、阿頼耶識と染汚法の形づくる迷界は、相互に依拠していると云わなければならない。  なぜなら、阿頼耶識がなければ世界は存在しないが、世界が存在しなければ阿頼耶識は自ら主体となって輪廻転生をするべき場を持たず、従って悟達への道は永久に閉ざされることになるからである。最高の道徳的要請によって、阿頼耶識と世界は相互に依拠し、世界の存在の必要性に阿頼耶識も亦、依拠しているのであった。しかも現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保障する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の交わる一点に存在するのである。ここに唯識論独特の同時更互因果の理が生じる、と本多は辛うじて理解した」   三島由紀夫『豊饒の月』 第三巻『暁の寺』阿頼耶識論

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