思い残すことなく死ぬために
トーク情報- 死ぬために生きる
死ぬために生きる 今日は箕輪さん主催?のある会(イベント)にお邪魔させていただいた。
僕は会う度に箕輪さんに魅了される。
もちろん会う前はSNSなどをくまなくチェックする。
箕輪さんを尊敬する点を挙げ出したらキリが無いが、人を味方につけて熱狂の渦に巻き込む能力がある。
大胆な部分もあれば、細やかに人を気遣える繊細さもある。
他者への想像力や、他者理解なるものがずば抜けているのでは無いかと思う。
それでいて少年のような部分もあるので、お付き合いをさせていただいていて、これほど気持ちが良い人はいない。
前にも書いたが、僕は箕輪さんに死ねと言われれば死ねる。
事あるごとに刺激をいただいているから、勝手に義理を感じている。
サッカーの引退まで2年。
日数にすると、たったの730日。
毎日を一日一生の気持ちで過ごしやり切れば、必ずいい意味で絶望し切って引退できるはずだ。
そして圧倒的努力の型が、少しは骨身に染み付いているはずだ。
そうなれていたら、引退後は数年間箕輪さんの力になるために人生を使いたいと思っている。
あまり理想や目先のことは話したくないが、本気でそう思える人なのだ。
箕輪さんと出会って6年目になるが、出会って以降も箕輪さんは個体の掟で活躍を続け、僕は中途半端な人間としてただ社会に佇んでいる。
箕輪さんに会った後は、必ず刺激と喜びを感じ、その反面不甲斐ない自分自身への悔しさと憤りを感じる。
ただこれはひとえに、自分がやってこなかっただけなのだ。
悔しさを感じることさえ烏滸がましい。
やるせなさを胸に、今日もこれから走る。
今日が1番若い。一日一生。 - 死ぬために生きる
死ぬために生きる 三島由紀夫の著書『若きサムライのために』の中に、"羞恥心"についてこんなことが書かれていた。
(以下抜粋)
「言論の自由の名のもとに、人々が自分の未熟な、ばからしい言論を大声で主張する世の中は、自分の言論に対するつつしみ深さというものが忘れられた世の中でもある。
人々は、自分の意見一一政治的意見ですらも何ら羞恥心を持たずに発言する。
戦後の若い人たちが質問に応じて堂々と自分の意見を吐くのを、大人たちは新しい日本人の姿だと思って喜んでながめているが、それくらいの意見は、われわれの若い時代にだってあったのである。
ただわれわれの若い時代には、言うにいわれぬ羞恥心があって、自分の若い未熟な言論を大人の前でさらすことが恥かしく、またためらわれたからであった。
そこには、自己顕示の感情と、また同時に自己嫌悪の感情とがまざり合い、高い誇りと同時に、自分を正確に評価しようとするやみ難い欲求とが戦っていた。
いまの若い人たちの意見の発表のしかたを見ると、羞恥心のなさが、反省のなさに通じている」
これはまさしくその通りだと感じる。
ゆとり教育の恩恵を1番受けた年の生まれで、何者でもない僕だが、これはまさしくその通りだと感じる。
これは見城さんが書籍やメディアなどでもお伝えくださっている、「自己検証、自己嫌悪、自己否定」の考えにも通ずる部分があるのではないかと思う。
「自己検証、自己嫌悪、自己否定」のプロセスを経た自己肯定や自意識と、ただの無自覚かつ無思慮な自己肯定や自意識というのは、全く持って意味合いが違う。
言論の自由、主張の自由が叫ばれ、自由を履き違えた若者が大量生産されているのではないだろうか。
そして、そんな人達を悪意を持って利用する人も増えているのではないかと思う。
豊かになりすぎて、無責任な自由が生まれたのではないだろうか。
本当の自由や人権とは、戦って勝ち取るべきものであるはずだ。
僕みたいな人間がこんなことを書き残してしまった。
こんなことを書く前に何者かになって人権を掴み取るしかないが、それでも三島由紀夫の言葉が、ある僕の体験を痛烈に呼び起こしたために、僕は書かなければ救われなかったのだろう。
お恥ずかしい限りです。トレーニングへと向かいます。