絶望しきって死ぬために
トーク情報- 死ぬために生きる
死ぬために生きる ↑
僕がミノさんに初めて会ったのは約5年前。
2020年の1月24日。
EDO ALL UNITED(当時ONE TOKYO)の初のセレクションの日だった。
そのクラブの発起人は高校の大先輩である本田圭佑さん。
僕は緊張しつつも確かに奮い立っていた。
そのセレクションはレベル分けされ、最後に本命のメンバー候補の試合が組まれていた。
僕は幸運にもレベルが上位に分類され、最後のタイミングで試合をすることになった。
ピッチ外でアップをする際にピッチを見つめると、決して上手くはないがゴールに向かってランニングや動き出しを繰り返す選手がいた。
それがミノさんだった。それがミノさんとの出会いだ。
愚直に、真摯に、目的に向かって何回も考えて動く、それが第一印象だった。
ミノさんも僕もなんとかセレクションに合格して無事に入団することができ、天才編集者と呼ばれ始めたミノさんとチームメイトになることができた。
ここから僕の人生は変わり始めることになる。
僕は本田圭佑さんとの関係値が濃かったことから、選手兼コーチとなり、現場の責任者となった。
ミノさんは仕事が忙しいにも関わらず、練習に参加しては、ウォーミングアップの段階で息を切らして死にそうになっていた。もし僕がミノさんなら次の日からは来ない。それくらいキツかったと思う。
チームメイトは20代前半の元Jリーガーや海外プロ経験がある選手がほとんどで、そんな選手達が再びプロになるために鎬を削っていた。キツいに決まっている。
30半ばの編集者がそこに飛び込んだのだ。心身ともに苦しかったはずだ。
それでもミノさんは練習に通った。愚直に考えて動き、ゴールを目指した。
週刊誌や世間に無闇に叩かれた後も、僕達を気遣ってくれた。
そんなミノさんを僕は放っておけるわけがなく、仕事終わりのミノさんの元へ押しかけては移動のタクシーなどでミノさん用に作った戦術のビデオを観せ、ミノさんにサッカーでどうして欲しいかを伝えた。
否が応でも距離が近くなり、ミノさんとフットサルをしたり、旅行に連れて行ってもらったり、ご家族にも良くしていただいた。
チームの権力者に政治をされて心が潰れそうな時も、ミノさんは味方をしてくれた。
あの時にミノさんと過ごした時間が今の僕を支えている。
ミノさんのようになりたいと、ミノさんの力になりたいと、弱い僕を成長させてくれる。行動させてくれる。
ミノさんのおかげで、僕は見城さんや755の皆様にも出会わせていただいた。
本当に兄貴分だと思っている。
この人のためなら死ねる。
ミノさんには、僕がミノさんにとって、とある出版社の伝説と、とある出版社の伝説のような関係になりたいとお伝えさせてもらった。
厳しい冬、厳しい夏、幻の冬、幻の夏、僕は一緒に超えて生きたい。
こうして今日も生きるための刺激をいただいた。
ミノさんのためなら死ねる。
こんなに繊細で大胆な、自己中心的なのに俯瞰で物事や人を見ることができる、愛らしい人間はいない。
ミノさん、本当に有難うございます。
必ずやります。 - 死ぬために生きる
死ぬために生きる 見城さんが[OMAKASE青山ガーデンbyGMO]の「BAR 青山ワイン会」にて飲まれたワイン
左から
ドーヴネ バタール・モンラッシェ 2015
ルフレーヴ シュヴァリエ・モンラッシェ 2018
オスピス・ド・ボーヌ マジ・シャンベルタン 2022
オスピス・ド・ボーヌのマジ・シャンベルタンのエチケット(ラベル)には、GMOインターネットグループの文字が。
オスピス・ド・ボーヌの歴史は、1443年にニコラ・ロラン夫婦が貧しい人々のために開いた施療院から。
治療費が払えない人々にも施療をしていたため、自らが所有するぶどう畑を寄付し、その畑から作られるワインの収益によってその施療院の運営費用をまかなっていた。
ニコラ・ロラン夫妻の慈しみや奉仕の心に感動した人々が、次々とぶどう畑を寄進するようになり、次第にそのワインがオークションにかけられるように。
樽熟成しているワインの樽を落札した人の名前がエチケット(ラベル)に記載される。
ちなみにこのオークションは世界最古のワインオークションとして1851年に始まり、今でも毎年11月第3日曜日に開催されている。
見城さんがブルゴーニュを旅して食べている感覚を覚えるほどの規格外。
圧倒的で尋常ではないこだわり。
どちらのブルゴーニュも旅して食べてみたくなりました。
ぶどう畑の生き生きとした緑、澄み渡る空の青、そしてワインをお持ちになる見城さんの凛としたお姿。
素敵なお写真を有難うございます。
いつか必ず。
今日ももう少しだけやることをやって死ぬ。
夜分遅くに申し訳ございません。





