絶望しきって死ぬために
トーク情報- 死ぬために生きる
死ぬために生きる 「ちゃんと生きます」
僕は[栄光のバックホーム]0号試写会に呼んでいただいた際、拝見した後に放心状態でなかなか席を立てず、皆様が出るのを待ち、最後に劇場を後にした。
そして出入り口の近くで皆様にご挨拶をされていた見城さんに、僕はこの言葉をお伝えしたと思う。
755などで自分なりに感想は書かせてもらったものの、拝見してすぐは、「ちゃんと生きる」としか言えなかった。
それくらいに心を貫かれた。深く刺されたのだ。
海外にいる時も、今を生きる横田慎太郎として恥ずかしくないか、事あるごとに自問自答を重ねた。
[栄光のバックホーム]の予告も何度も観た。
見城さんや秋山監督、松谷鷹也さん、[栄光のバックホーム]に関する映像はなんでも、そして何度だって観た。
そんな僕の人生を変えてくれている[栄光のバックホーム]を、今どうしても一緒に観たい人が2人いた。 - 死ぬために生きる
死ぬために生きる ![投稿画像]()
1人は母。
昨夜は母と[栄光のバックホーム]を観た。
僕は一緒に観ることで、これまでの人生の感謝と謝罪の両方を伝える意味での謝意と、これからの人生の決意を伝えたかった。
[栄光のバックホーム]が上映されるスクリーンには老若男女様々な方がいて、野球少年たちや家族連れ、あまり映画館に足を運ばなさそうな若いカップルや、女子高生たちの姿まであった。
母は最初から最後まで、ずっと泣いていた。
家族構成や、父や姉の人物像が似ていたり、競技は違えど僕の寮生活や、プロ選手としての生活、手術や医療現場での生活など、様々なことが自分のことのように思えたのだと思う。
僕から見ても、まなみさんの姿は母にすごく重なって見える。
そんな母を隣に、僕は今までの人生での自分の体たらくが申し訳なくなり、涙が止まらなかった。
怪我をして手術をした時も、選手権(高校サッカーにおける甲子園)での活躍を目指した時も、プロになってからも、きっと結果が出ている時も出ていない時も、変わらぬ愛で自分に接してくれていたはずだ。
母と僕も泣いていたが、劇場にいた9割の人が泣いていたと思う。
中でも僕が怪訝に感じていた女子高生2人組が席を立てずに嗚咽しながら泣いていた。
そしてこう呟いてもいた。
「だめだ、ずっと泣いてたけど、最後やばい。写真やばい」
その瞬間、女子高生2人組はきっとそれぞれのことを思っていたと思う。
松谷鷹也という横田慎太郎、横田慎太郎という松谷鷹也、鈴木京香という横田まなみ、横田まなみという鈴木京香。
作品の中はもちろん、スクリーンには映らないすべての細かいところに、偽物や作り物、その場しのぎがないからこそ、この映画は本物。
映画を超えるものなのだ。
だからこそ、あのエンディングと最後の見城さんのお言葉がさらに強く意味を持つ。
そして本編自体の意味合いやメッセージも、さらに強くなる。
あそこで、あの後書きで、
「横田慎太郎は俺だ」「あの人は私だ」
と、この物語は全て自分ごとになる。
本当にとんでもないものだ。
この奇跡が、多くの人をそれぞれの栄光の道へと押し進めると信じている。
出会えて良かった。
[栄光のバックホーム]に関わる全ての皆様。
本当に本当に有難うございます。 - 死ぬために生きる
死ぬために生きる 「ちゃんと生きます」
僕があの日見城さんにお伝えした「ちゃんと」の意味がわかってきた気がする。
善良、正直、真心、誠実、感謝、謙虚。
きっとこうなのだと思う。
横田慎太郎さんには横田慎太郎さんの、母には母の、野球少年たちには野球少年たちの、女子高生たちには女子高生たちの、それぞれの生の営みがある。
しかし[栄光のバックホーム]には、全ての人に寄り添って抱き締める力がある。
最後に微笑むことができるように、また一日一日を生きていく。
母も、家族も友人も、名前も知らない人たちも、今僕は全ての人達を無性に抱き締めたい。
次は高校からの大親友で、プロ野球で活躍する友人と観たいと考えている。
彼の詳細な状況は書けないが、僕は[栄光のバックホーム]を通して僕なりのメッセージを彼に伝えたい。 - 死ぬために生きる
死ぬために生きる ![投稿画像]()
実家の自室兼作業場になっている部屋には、僕が中学1年生の時に一目惚れし、親に買ってもらった手ぬぐいが飾ってある。
福島県のサッカー施設で全国大会が行われた際に、チームメイトがお土産売り場のキーホルダーやボールペンに群がる中、僕はこの手ぬぐいに一目惚れした。
そこから飾り始めて実に17年。
実に恥ずかしく、そして情けない話なのだが、この手ぬぐいの書が金田石城先生のものだと、今朝になって気がついた。
見城さんの755や、様々なメディアで度々拝見する金田石城先生の書。
見城さんが金田石城先生の書に関してご投稿される際には、書の魅力に取り憑かれ、無意識的にネットで金田石城先生の他の書を検索してしまう。
17年間もこの文字、言葉、絵に、僕は見守ってもらっていたのだ。
細胞レベルで金田石城先生の書に魅力と愛着を感じていたに違いない。
この手ぬぐいの中にも、一見相反する迫力と繊細さが同居している。
選手、ユニフォーム、ボール、それぞれの線や色の濃淡がどこを切り取っても同じではないため、躍動感とリアルな息遣いが感じられる。
そして、描かれていないはずの一人一人の表情が見えてくる。
今になって気づくと言う大変お恥ずかしい話なのだが、この手ぬぐいから力をもらってきたことは僕の中では変わらない。
もしかしたら明日死ぬかもしれないし、これから70年以上生きるかもしれないが、残りの選手生活、人生をこの手ぬぐいと共にしたい。
今日はもう一度ジムに行く。一日一生。




