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見城徹のトーク
トーク情報見城徹 吉田真悟吉田真悟 ![投稿画像]()
年末年始にかけて、僕の背筋を伸ばしてくれたのは幻冬舎の見城徹だった。
映画『栄光のバックホーム』の公開前、彼は明らかに怯えていて、その顔には命を懸けてでも子を守りきる母熊のような覚悟と凶暴性があった。
この時期の母熊は余計に神経質になる。
身を切る覚悟を持たない存在など許せるはずがない。
半端な姿勢で彼の緊張の圏内に入り、そして噛みつかれた人間も少なくなかったハズだ。
何も間違っちゃいない。それが戦場の掟だ。
『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』の公開前に、彼のその姿を見ることができたのは僕にとっては幸運でしかなかった。
そうだ、そうだよな。
生きるか死ぬかの瀬戸際を走ってきたから僕らは出会えたわけだ。
ここから離れてなるものか。
自分の視界に、震えながらも立ち続ける先輩の背中があることは、恵まれた環境だと思う。
その背中は、荒れた状況の中でも進む方向を示す「北極星」だ。
声高に語らずとも、在り方そのものが基準になる。
どこまで責任を負うのか。どこまで仲間を守るのか。
これまで、その星に何度も救われてきただろうか。
次は、僕の番だと思う。
後輩達は、よく見ておいてほしい。
世界との戦い方と、仲間の守り方を。見城徹 見城徹見城徹 企画 編集
アングラ演劇の主演俳優だった金子正次が1981年1月、同劇団の解散公演の楽日に大量に吐血し病院に担ぎ込まれる。一命は取りとめ、既に手遅れ[2]の状態の末期の胃ガンと診断されたが、本人には最後まで病名は伏せられた。金子は東映任侠映画が大好きで[1][2][4]、退院からの二年間、ヤクザ映画を作りたいと精力的に映画製作に取り組んだ[2]。しかし1980年代初頭、ヤクザ映画は完全に死んでいた[1]。1980年、1981年とヤクザ映画は1本も公開されず、1983年、深作欣二、佐藤純彌、中島貞夫監督でリメイクした『人生劇場』も興行が振るわず[1]。最初に競馬のノミ屋を描いた「ちんぴら」(『チ・ン・ピ・ラ』として1984年映画化)の脚本を書き、大手映画会社に持ち込むが、「脚本はいいが、主演は君には務まらない。他のキャストでやってみればどうか」と言われこの話を蹴る[2]。無名の監督、キャストではメジャーの配給ルートに乗せられない[5]。主役しかやるつもりのない金子は映画会社での製作をあきらめ、自主製作にしようとかつての演劇仲間たちに声をかけた。プロデューサーには原宿学校(現・東京映像芸術学院)時代の友人・大石忠敏(川島透)に頼んだ[6]。金子は鈴木明夫の名前で1982年秋「竜二」のシナリオを書き上げ、製作費3000万円は、自己資金と実家や知人からかき集め、配給会社のあてのないまま、1983年1月6日にクランクインした[2]。金子の妻役の花城まり子を演じた永島暎子は「金子さんはもう、自分はもうだめなんじゃないかと分かっていたんじゃないかと思います。金子さんは、松田優作さんと、まだ松田さんが売れない時からの親友で、かたや松田さんは映画界でどんどんスターになって、自分は何をやっているのか田舎の親も誰も知らない。東京でやくざやっているんじゃないかと言われてて、自分の形が映るということをやっぱり映画でやりたかったんでしょうね。だから自分が主役をやるための映画の脚本をたくさん自分でも書いてらして、売れるとか決まってるわけじゃないけれども、とにかく友達のお金集めていきなり作ってしまったという。 やっぱり最後に自分の形が映るということを映画でやりたかったんでしょうね。それだけなんだと思いますけど」と述べている[7]。見城徹 見城徹見城徹 映画[竜二]に出て来る幼い娘は金子正次の本当の娘です。当時、よく会いましたが、今はどうしているでしょう?金子正次の弔いの意味を込めて角川書店「野性時代」の編集者だった僕は生江有ニに金子正次の短かった生涯のノンフィクションを書いてくれるよう依頼しました。それは「野性時代」に長編一挙掲載[銀幕、遥かなり]として発表されましたが、単行本化は当時の書籍編集部長に拒否されました。それでも僕は諦めず、社長だった角川春樹に頼み込み実現させました。タイトルは[ちりめん三尺ぱらりと散って]に改題しました。それが全く売れなかったため当然、文庫化は書籍編集部長に再び拒否されました。数年経って、幻冬舎を立ち上げた僕はまたまたタイトルを変えて[竜二ー映画に賭けた33歳の生涯ー]として幻冬舎アウトロー文庫として刊行しました。


