奥平は口数も少なく、理屈を言ったり議論を吹っ掛けるタイプではなかった。
それは両親や友人たちの証言でも一致しているし、檜森孝雄によれば、赤軍派の
路線やスローガンを口にしたり、言葉でのオルグをしたことはなかったという。
また、丸岡修が決死作戦であることを知らされていなかったのを理由に参加を
拒否したとき、説得することなく諒解していることからも、それは察せられる。
事件から40年以上経った今でも、この事件について掘り下げた文献は少ない。
それが奥平や安田ら個人に言及したものについては なおさらだ。重信房子ら
関係者によるものを除けば、2009年に講談社の雑誌「g2」で髙山文彦によって
書かれた「奥平剛士の『愛と革命』リッダ!」が恐らく最初ではないだろうか。
のちに日本赤軍を名乗る重信が、“我々” という括りでリッダ闘争を語ったり、
岡本公三がよど号ハイジャック事件の実行犯・岡本武の実弟だったこと、加えて
連合赤軍の同志粛清事件の記憶も新しかったことなどから、彼らの “革命” は
正当な検証すらされないまま忘れ去られようとしてきた。しかし、奥平剛士らが
何を考え、何の為に行動に至ったのか、改めて見つめ直してもいいのではないか。
無論、リッダ闘争をどう捉えるかは意見が分かれるところだろう。無辜の民の生命を
奪ってしまったことについては非難されてしかるべきだろうし、イスラムにおける
自爆テロの浸透に、もしも彼らが影響を与えてしまったのなら、それは罪深いことだ。
自分は奥平剛士や安田安之を英雄視している訳ではない。しかし、彼らに対する
憧憬の念が強く存在しているのも事実だ。重信房子著『革命の季節』の序文で、
幻冬社社長・見城徹は “自らの信念と思想に忠実に生きようとした” 奥平らに
対する思いを、“後ろめたさ”、“自己嫌悪” といった言葉で表現している。
リッダ闘争当時、まだ この世に生を受けていなかった自分にも、この感覚は充分に
理解できる。見城の言う後ろめたさや自己嫌悪というものが、奥平らの発した言葉や
行動を通して、これでもか、これでもかと浮き彫りにされていくような気がするのだ。
ただ、ひとつだけ残念なのは、彼らが死を急ぎすぎた感があることだ。そこには
連合赤軍による同志粛清事件の発覚や山田修の事故死など、いくつかの要因が
重なっているのだが、客観的に見れば、それらが別の方法を模索したり引き返す
契機ともなり得たはずだ。しかし、それらが死へ向かう加速度を増すことにのみ
作用した事実は、彼らが何かに魅入られていたのではないかと思えてならない。
その後の岡本公三が置かれた状況や、日本赤軍の辿った道を照らし合わせれば、
奥平らは任務終了と共に死ぬことができて良かったのだろう。しかし、それでも
なお、彼らに生き延びて欲しかったという相反する思いが妙な形で同居している。
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