見城徹のトーク
トーク情報見城徹 死ぬために生きる死ぬために生きる 常識を破り、ルールとゲームを作る。
そして、それが王道となり常識になれば、また常識を破り、新たなルールとゲームを作る。
見城さん、秋山監督、ご関係者の皆様が、ハイリスクという薄氷を踏み抜き、熱狂し、圧倒的努力したからこそ、観客動員数129万人超、興行収入17億円超という鮮やかな結果になったのだと存じます。
見城さんのお言葉、ご著書、作品は、見城さんが闘争し、傷つき、血を流して獲得してきた本物だからこそ、人の心のど真ん中を貫く。
だからこそ[栄光のバックホーム]も、単なる映画の枠を超えて多くの人を感動させる。
「文芸元年3月25日。幻冬舎は歴史に新しい楔を打ち込むことができるでしょうか」
見城さんが文芸元年3月25日に世に出された[闘争宣言]の最後の一節。
見城さんはずっとこうして生きてこられたのだ。
きっと幻冬舎filmも、歴史に、世界に楔を打ち込み、新たなルールとゲームを作っていく。
同じ時代を生き、伝説の物語をリアルタイムで目撃することができる。
僕にとってこの上ない喜びです。見城徹 見城徹見城徹 『初恋』(2019.1.7掲載)
静岡県立清水南高校。ずっと憧れていた1学年下の女生徒に卒業の直前に想いを書いて手渡した。
東京の大学に合格し、彼女に何も告げずに高校を去って行くのはあまりにも後悔が残ったからだ。
決死の想いは通じて、卒業式の日、校門前で待ち合わせて三保の松原まで海岸を2人で歩いた。それが初めてのデートだった。
それから3週間、毎日会った。
狐ヶ崎ヤングランドのスケートリンクで滑り、当時話題になっていた『若者たち』という映画を観、彼女の家の近くの丘にピクニックに行った。
一時でも離れ離れになるのが怖かった。
1969年4月4日。僕が東京へ行く日がやって来た。既に高校の授業は始まっていた。僕は1人でボストンバックを提げて、静鉄バスの小糸製作所前に佇んでいた。
バスが到着した時、突然、彼女が走って来た。高校の制服姿だった。
事情は解らなかったが、僕を見送りに来てくれたことは明らかだった。
東海道線の清水駅まで2人でバスに乗った。プラットホームに立って、手を握り合って列車を待った。晴れてはいたが、強い風が冷たかった。
言葉はなかった。2人とも泣いていた。全身が痺れるような切ない時間だった。
50年が経ち、68歳になった。幾つかの恋をして、肉親や何人かの友人の死を見送った。自分の会社を立ち上げ、上場し、上場を廃止した。
しかし、立ち尽くしながらあれほどまでに長い時間、涙をボタボタと落としたことは一度もない。
