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見城徹

1991年11月2日。チェコ・フィルを率いたクーベリックの[わが祖国]をサントリーホールで楠田枝里子と聴いた。クーベリックの日本での最後の演奏になる筈のチケットは極端に入手困難で、どうしても行きたいという楠田枝里子の懇願にウルトラの技を駆使してゲットした。 共産主義体制に反対しチェコ・フィル首席指揮者の地位を投げうって西側に亡命した名指揮者クーベリックが1990年、42年ぶりに祖国を訪れ、「プラハの春」でチェコ・フィルと「わが祖国」を指揮した演奏は伝説となっていた。 サントリーホールは異様な緊張に包まれていた。 第一曲『ヴィシェフラド』が終わり第二曲『モルダウ』に入って楠田枝里子が泣き始めた。それを見ながら暫くして不覚にも寝落ちしてしまった。コンサートが終わり2人でビストロで食事をした。「あんな感動的な場面で寝た貴方は最低だ」と叱られながら食べたエスカルゴの味を11月が近付くと鮮やかに思い出す。

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見城徹のトーク
トーク情報
  • 見城徹
    見城徹見城徹

    憧れている女性がいるとする。運良くその女性の誕生日に食事の約束を勝ち取った。さて、食事はどこにするか?プレゼントは何にするか?
    さあ、場面を張る時だ。結果など考えない。

  • 見城徹
    見城徹見城徹

    たまには場面を張らなければ人生は面白くない。場面を張りながら人は成長して行く。
    少年は男になり、少女はレディになるのだ。

  • 見城徹
    三上雅博三上雅博


    もうお昼間になってしまいました。
    今日は2020年8月の親父の投稿のリトークです。

    僕にとって人生最大の「場面」は、親父が初めてご来店してくれた日です。

    予約を頂いてから、その日を考えない日はありませんでした。その日の為に自分に出来得る限りの最高の仕入れをし、時間の許す限り仕込みに没頭した。後はご来店を待つばかり。緊張も極限に達していた。
    ゆっくりとドアが開き、店に入ってくる親父は後光が差すかの如く光り輝いていた。僕にはその時の映像がスローモーションの様に記憶に刻まれている。実際に時空までも歪んでいたかもしれない。
    そのオーラは瞬く間に店中に広がっていく。店内は一気に神聖な空間に変貌する。
    そして僕は僕の人生を賭けて全力を尽くす。それで死んでも悔いはない。ただこの人に心から喜んで貰いたいと思ったんだ。
    そして僕は、逆に親父に救われた。
    僕は「見城徹」を人生で唯一親父と呼び、敬愛しています。

    皆様、本日も宜しくお願い致します。