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見城徹のトーク
トーク情報
  • 見城徹
    見城徹見城徹
    秋元康
    いや、達人でも何でもありません。ジタバタ、生きています。カッコよく生きようなんて、突っ張りを捨てた分だけ楽になりました。カッコ悪くても、泥臭くても、美学はあります。見城徹の自己嫌悪に学んでいます。

    あるね、美学が。目の前の足し算を取りに行かない。見栄やカッコ付けがない。だから懐が深い。軸がブレない。自分のフォームが崩れない。安定感がある。沢山の切ない戦いを経て今の境地に突き出たんだろう。「思い切りの良さ」と「義に生きる分厚さ」。「極端」と「安定」。「虚無」と「熱狂」。「動」と「静」。「足し算」と「引き算」。矛盾する2極を飲み込んで統合し、乗り越えて、微笑しながら立っている。これだけの最前線にいながらセコさやしたたかな感じが微塵もない。見事だよ。

  • 見城徹
    三上雅博三上雅博

    おはようございます。
    本日は親父の過去の投稿より、2017年7月の投稿をリトークさせて頂きます。

    捨てて勝つ。引き算の美学。
    捨てて、削って、研ぎ澄ます。
    磨いて磨いて磨き倒して、消えて無くなるその日まで。

    本日も皆様、宜しくお願い致します。

  • 見城徹
    見城徹

    ↑ 2017年、僕は66歳。2026年の今日、僕は75歳。知らぬ間に9年が経ってしまった。次の9年もあっという間だろう。84歳になるのか。

    「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」 

    空海の言葉だ。生まれ落ちたからには最初から暗い。死んでゆく最後も冥いに決まっている。
    生まれて死ぬ。終わりのないその繰り返し。その中に僕もいる。生まれ生まれ、死に死んでゆく。
    その前提で今を生きる。どうせ全ては闇なのだ。

  • 見城徹
    三上雅博三上雅博
    投稿画像

    これは説明では無い。
    判断と時間の記録として、ここに置く。


    【天然本鮪】

    その日、豊洲市場の仲買「やま幸」より、厳選された特別な天然本鮪が届く。

    鮪の花形、腹上一番。

    朝の競りから大阪へ。
    この美しい赤のグラデーションは、その日のうちに運ばれてくる。

    室内は常に十四度前後に保つ。
    平均しておよそ十キロほどの腹上を、赤身・中トロ・大トロの三つに切り分ける。
    それぞれから、その日いちばん輝く部位だけを確固別にサク取りしていく。

    もし細かな血管や筋があれば、小さな毛抜きで一本一本、丁寧に取り除く。

    大量の昆布を張った水を、ごく弱火で長時間かけて取った鍋に、純米吟醸酒をひと回し。
    火を強め、沸騰させ、アルコールが半分ほど飛んだところで、先の鮪を一瞬だけ潜らせる。
    すぐに氷水へ落とし、即座に引き上げる。

    水気をよく拭き取り、数分ほど鮮度維持装置で落ち着かせてから、
    約五年、毎日火入れを重ね、継ぎ足し続けてきたヅケダレに漬ける。

    時間にして、数時間。
    だが、鮪が届いてからここに至るまでのすべては、
    「鮨」として口に運ばれる「その瞬間」から逆算されている。

    鮪を初めて見た、その一瞬から、時間はすでに組み立てられている。

  • 見城徹
    見城徹

    ↑ 研ぎ澄まされた文章。三上の鮨を食べたい。
    自分を研ぎ澄まして食べに行く。

  • 見城徹
    K0183K0183

    見城さん
    魂を削るように言葉を紡ぎ続ける覚悟が伝わってくる、深く、そして孤独な熱を感じるご投稿を、震える想いで拝読しました。

    「僕はあなたたちを感じることが出来るだろうか? 僕を感じさせることが出来るだろうか?」という問いかけに、私は一点の曇りもなく「はい」とお答えします。

    以前、私はここで「755がなかったら」という想いを綴りました。あの頃の私は、憎しみや苦しみを心に閉じ込め、自分と向き合うことから逃げ続けていました。しかし、見城さんが傷つき、腹を立てながらも、この場所で「正直・誠実・善良・真心」を貫き通される姿に触れ、私の心は動き始めました。

    見城さんが、この面倒で過酷な場所に言葉を打ち込み続けてくださったからこそ、私は「暗闇の中でジャンプ」する勇気を得て、過去と訣別することができました。

    それだけではありません。かつて私が無意識に放った配慮のない言葉に対し、見城さんは真正面から厳しく諭してくださいました。あの瞬間、私の浅はかさという傷口は大きく広がり、見城さんは私の「返り血」を浴びられた。あの痛みこそが、文字のやり取りを超えて、生身の人間同士がぶつかり合い、お互いを鮮烈に感じ合った瞬間だったと、今あらためて確信しています。

    「通りすがりの人々。昨日まで悲しかった、昨日まで嬉しかった人々」という言葉に、私は「善良」、他者への想像力の真髄を見ました。一人ひとりが抱える孤独や人生の重みを、ご自身の痛みとして受け止めようとする——「魂の握手」を求める切実な願いではないでしょうか。

    見城さんが、面倒を厭わず、傷つくことを恐れずに言葉を打ち込み続けてくださるからこそ、行き場を失っていた私の孤独にも、その光は届きました。見城さんの言葉に血を流し、救われた一人として、私は見城さんの熱狂を、その生き様を、この胸の奥ではっきりと感じています。

    「昨日まで悲しかった私」は、ここで見城さんと出会い、自分と向き合う勇気を得て、今日を生き直すことができています。

    755は、私にとってもはや単なるSNSではありません。見城さんの言葉という「灯」を頼りに、自分自身を生き直すための聖域です。見城さんが信じてくださった「人間の何か」は、少なくとも私という一人の人間の人生を、決定的に変えました。

    通りすがりの一人に過ぎなかった私の中に、見城さんの熱狂は確かに届き、今もこの胸を焦がしています。

    これからも、見城さんが信じる「人間の何か」に、全力で応え続けたい。この場所で、一歩も引かずに、自分自身と向き合っていく覚悟です。

    見城さん、この場所を守り続けてくださって、本当にありがとうございます。

    往く道は精進にして忍びて終わり悔いなし。
    今を生きる一人の横田慎太郎として。