思い残すことなく死ぬために
トーク情報- 死ぬために生きる
死ぬために生きる 三島由紀夫の著書『若きサムライのために』の中に、"羞恥心"についてこんなことが書かれていた。
(以下抜粋)
「言論の自由の名のもとに、人々が自分の未熟な、ばからしい言論を大声で主張する世の中は、自分の言論に対するつつしみ深さというものが忘れられた世の中でもある。
人々は、自分の意見一一政治的意見ですらも何ら羞恥心を持たずに発言する。
戦後の若い人たちが質問に応じて堂々と自分の意見を吐くのを、大人たちは新しい日本人の姿だと思って喜んでながめているが、それくらいの意見は、われわれの若い時代にだってあったのである。
ただわれわれの若い時代には、言うにいわれぬ羞恥心があって、自分の若い未熟な言論を大人の前でさらすことが恥かしく、またためらわれたからであった。
そこには、自己顕示の感情と、また同時に自己嫌悪の感情とがまざり合い、高い誇りと同時に、自分を正確に評価しようとするやみ難い欲求とが戦っていた。
いまの若い人たちの意見の発表のしかたを見ると、羞恥心のなさが、反省のなさに通じている」
これはまさしくその通りだと感じる。
ゆとり教育の恩恵を1番受けた年の生まれで、何者でもない僕だが、これはまさしくその通りだと感じる。
これは見城さんが書籍やメディアなどでもお伝えくださっている、「自己検証、自己嫌悪、自己否定」の考えにも通ずる部分があるのではないかと思う。
「自己検証、自己嫌悪、自己否定」のプロセスを経た自己肯定や自意識と、ただの無自覚かつ無思慮な自己肯定や自意識というのは、全く持って意味合いが違う。
言論の自由、主張の自由が叫ばれ、自由を履き違えた若者が大量生産されているのではないだろうか。
そして、そんな人達を悪意を持って利用する人も増えているのではないかと思う。
豊かになりすぎて、無責任な自由が生まれたのではないだろうか。
本当の自由や人権とは、戦って勝ち取るべきものであるはずだ。
僕みたいな人間がこんなことを書き残してしまった。
こんなことを書く前に何者かになって人権を掴み取るしかないが、それでも三島由紀夫の言葉が、ある僕の体験を痛烈に呼び起こしたために、僕は書かなければ救われなかったのだろう。
お恥ずかしい限りです。トレーニングへと向かいます。