さとる「ラストレシピ」「去年の冬、君と別れ」に続いての映画のご紹介ありがとうございます。 「サニー」韓国版を今観ました。現代と高校時代の往来が絶妙で、自分の人生とも重ね合わせて何度も泣きました。 リメイク版がどのように描かれているか楽しみです。
見城徹のトーク
トーク情報見城徹 見城徹見城徹 18歳で慶応大学進学のために静岡県清水市のマッチ箱のような家を出て、大学1年の時は横浜市港北区の日吉駅の近くに、2年になって都立大学駅の近くに下宿した。いずれも三畳一間だった。2年の秋、実家が清水市から神奈川県の相模原市に引っ越して来た。4つ歳下の妹が成績が優秀で、東京の高校に転校させたいという親心だった。幸い父親が勤める会社は東京に本社があって転勤出来たのだ。両親がなけなしの貯金とローンで購入した相模原市の粗末な建売住宅は小田急線の小田急相模原駅から歩くと40分ぐらいあった。相模原市新磯野1997。その先の土地は住所がなかった。当然、僕も都立大学の下宿を引き払って相模原に引っ越した。家から小田急相模原駅までは僕も妹も自転車で15分ぐらいかけて行ったが、寒い日や風雨の強い日は辛かった。日吉へは小田急線、南武線、東横線を乗り継いで通い、三田へは小田急線と山手線で2時間かけて通った。その狭くて質素な建売住宅の購入代金は今、僕が一晩で思い切ってドーンと使う時の食事代や飲み代と変わらない。あの頃は一本135円のビール代にも不自由していて、友人が泊まりに来るとあまり歓待できず恥ずかしかった。母親は家計を切り詰めて、しかし必死に僕らを育ててくれた。僕は廣済堂出版に入社し、妹は上智大学外国語学部英語学科に進学した。あれから50年が経った。中学・高校時代を過ごした清水市のマッチ箱のような社宅をNHK・BSの[わたしが子どもだったころ]の撮影で訪ねたことがある。あまりの狭さと素朴さに、「こんなところで暮らしていたんだ」と驚きを禁じ得なかった。そこで僕は多感な中学・高校時代を過ごしたのだ。思えば遠くまで来た。今こうして自分が在るのが信じられない。本当に50年は夢幻の如しだ。しかし、僕はこの50年の夢幻のような日々を耐えたのだ。あの頃、僕には何もなかった。初心忘れずべからず。改めて胸に刻む。いつでもゼロからまた始める覚悟を決めている。どうせ最後は土に還り、風になる。
見城徹 三上雅博三上雅博 ↑
おはようございます。
2018年9月の親父の投稿のリトークです。
親父の投稿を読み、二十歳くらいの頃に三畳一間に住み込みで働かせてもらっていた修行時代を思い出しました。とても懐かしく思います。
あの頃、嬉しかったり悲しかったりした少年は見た目ばかりが大人になった。中身はいつまで経ってもガキのまま。相も変わらず滅茶苦茶な事ばかりして、周りには心配や迷惑ばかりかけている。そんな僕を支えてくれる周りの皆様には本当に感謝しかない。
今も二人で九畳だからあまり変わっていないけれど、あの頃よりも少しだけ広くなりました。起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半。
本日も皆様、宜しくお願い致します。