三上雅博のトーク
トーク情報- 三上雅博
三上雅博 「あなたは何をしてる時が一番幸せですか?」
この質問に、僕はすぐ答えられませんでした。「仕事」と言えば格好良かったのですが、声を大にして「仕事」とは言えませんでした。
「仕事は楽しいですか?」と言う質問だったなら僕はすぐにYESと答えたのだと思います。
自分にとって幸せとは何かを考えた時、色んな事を想像しましたが、自分の中にその答えは見つかりませんでした。
愛する人達の幸せが、きっと自分の幸せなのだと思います。
強いて言うなら、何かが出来上がった時や、何かが終わった後の「余韻」。その刹那だけ自分の中で幸せを感じている気はしています。
しかし達成とは、更なる地獄の始まりです。
人生は、ほんのちょっとの幸せと、沢山の苦しみに満ちている。 - 三上雅博
三上雅博 ↑
おはようございます。
2024年4月の親父の投稿のリトークです。
「755がなかったら」。
親父の投稿から続く、皆様の文章に涙が溢れてきます。十人十色の物語。それぞれの熱狂。それぞれの奇跡。いつもいつも感動を有難う御座います。
親父、フォロワーの皆様、755運営の皆様に感謝しかありません。
僕にとっての755とは、尊敬する親父の言葉を媒介に、他者ではなく、自分と交信するための、大切な場所となっています。
親父の言葉に照らされて、ここに文章を書く事で、僕は狂わずに済んでいます。書かなければ僕は壊れてしまうから。書かずにはいられないのです。
極度の緊張状態の中でギリギリの均等を保つため。内圧を外に逃すため。生きながらにして死を抱くための祈りの場所。思考と言動の一致を確認する場所。それが僕にとっての755。
755がなかったら。僕の精神はとっくに崩壊していた事だろう。
本日も皆様、宜しくお願い致します。 - 三上雅博
三上雅博 人生で初めて天然本鮪のトロを食べた日のことを、昨日の様に思い出します。
僕は小学四年生の頃から三年間、学区内のサッカー少年団「イレブン」と言うチームに所属していました。当時アニメで観た「キャプテン翼」に憧れてサッカーを始めました。
決してスポーツ万能では無かったと思います。足がちょっとだけ速かったのも一瞬の栄華に過ぎず、必死な事以外に取り柄なんてありませんでした。ポジションは紆余曲折して最終的にキーパーになりました。試合で負けていると、キーパーなのにも関わらず、試合終了間近には自ら攻撃に加担したりしていました。
監督に怒られる事も多かったのですが、心を打つ事もあったらしく、少年団の会報で唯一僕だけが名前を載せてもらいました。それがきっかけで周りからいじめられました。共同体の中で、自分だけが浮いた存在だったのだと、今ははっきりと理解出来ます。当時の僕には絶望でした。
色んな事があったはずの小学校での記憶はほとんどが消えかけていて、思い出すのは外での経験ばかりです。
小学五年生の秋頃です。僕達がサッカーの試合で勝利したある日、父「勝利」がパチンコで勝利しました。
「勝ったお祝いに寿司屋に連れて行ってやる。」
僕にとって人生初めての寿司屋。その言葉に胸が高揚したのを覚えています。
いざその時を迎え、地元の有名店へ。「小樽寿司屋通り」を全国に知らしめた名店のひとつです。胸の高鳴りを抑え、のれんをくぐった奥に広がっていたのは「初めて」ばかり。そこでは威勢の良い声が飛び交い、目に映るのは長い白木のカウンター。粋な白衣を着て、イキイキと鮨を握る職人さん達が立ち並ぶ光景に、僕は目を奪われました。
僕達家族は「小上がり」に通されました。父が「上にぎり」を4人前頼んでくれて、家族4人で目を輝かせながらその時を待ちました。
待望の鮨は、綺麗で、輝いていて、あまりにも美味しくて一瞬で無くなってしまいました。
食べ盛りの小学生2人。鮨の八貫くらいでは満足できないのを察し、追加してくれる事になりました。
鉄火巻きとカッパ巻きを一人前ずつ頼む事が決まり、あとは何を食べたいか聞かれた僕は「トロ」と言いました。高価であるのは噂で知っていましたが、食べ物の味に貪欲な僕はどうしても食べてみたくて、我慢できなかったのです。そうして父は震える声で「トロ一人前」をサビ抜きで注文してくれる事となったのです。
目の前に置かれた「トロ一人前」10貫サビ抜き。全てが衝撃でした。世の中にこんな美味しいものがあったのかと。小学生にして、今後の人生において、これを超えるものに出会えない様な予感すら感じてしまいました。
トロだけで一人前8000円だったそうです。当時住んでいた長屋の市営団地の家賃もそれくらいでした。ありがたい。感謝です。
この経験が、僕のその後の人生にもたらした影響は計り知れません。