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見城徹

静岡新聞夕刊の僕の連載コラム[窓辺]第11回『課外授業』(2019.3.18掲載) 2001年2月18日NHK総合で僕の「課外授業 ようこそ先輩」が放送された。僕が通った清水市立有度第一小学校(当時)6年2組の生徒たちに2日間に渡って授業をし、それをまとめたものだ。幸いなことに評判は良く、3度も再放送され、その記録は1冊の本にもなって出版され版も重ねている。授業は悪戦苦闘の連続だった。 「課外授業」というからには学校の通常の授業では教えてくれないことを生徒たちに教えたかった。これから人生を生き始める12歳の子供たちに人と人とが関係するとはどういうことかを「編集する作業」を通じて伝えたかった。 母校は僕の小学校時代の建物の配置がそのまま残っていて、僕が1人遊びをしていた場所もそのまま在った。 5、6年の頃は自らピエロを演じるいじめられっ子だった。いじめる側ばかりを信じる担任の先生にも嫌われていて、通信簿の「行動の記録」はCばかりだった。一刻も早く卒業したかった。まさかその小学校で6年生に授業をすることになるとは思ってもみなかった。仲良しこよしでいても本当の関係は始まらない。自分の気持ちをさらけ出して相手と批評し合った時、傷口は広がるし、返り血も浴びるし、涙も出るが関係は深まる。2日目の授業では、数人の生徒が感極まって泣き始めた。授業を終え、教室を出て帰ろうとする僕を全員が校庭まで追いかけて来て、僕も目頭が熱くなった。 僕は68歳になった。 30歳になる彼等は今、どんな人生を歩んでいるだろうか?

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見城徹のトーク
トーク情報
  • 見城徹
    見城徹見城徹

    自分の始末は自分でつける。朝日の社長の前でてめえが死んでみせることが何より肝心なのだ。いまこそオレは、ニセの平和主義、戦後の虚妄を営々と構築してきた大朝日ー「第四の権力」マスコミに躰をぶつけて死ぬのだ…。
    瞑想し物思いに耽っている野村を乗せた車は、交通渋滞もなくスムーズに走り続けた。そしてついに目的地に到着した。
    「先生、着きました」
    古澤の声に、野村が目を見開いた。車が停まり、目の前にあたりを睥睨するかのように聳える高層ビルがあった。
    その巨大な壁のように立ちはだかる建物をキッと見据え、野村は車を降り、第一歩を踏み出した。

       ーー山平重樹[激しき雪]ラストシーン

  • 見城徹
    見城徹見城徹

    カドカワ時代に一度だけ野村秋介さんと電話で話したことがある。30年ぐらい前だ。僕宛てに野村秋介さんから名指しでかかった来た。ある依頼をされたのだが、僕はそれを辞退した。僕には荷が重かったのだ。その数年後、野村秋介さんは自決した。「そうか、ではいい」そう言った野村秋介さんの声のトーンが今でも耳に残っている。

  • 見城徹
    三上雅博三上雅博


    おはようございます。
    2020年3月の親父の投稿のリトークです。
    今日は沢山リトークしてしまいました。申し訳ございません。

    野村秋介。1993年10月20日。58歳没。
    朝日新聞東京本社にて経営陣との話し合いの末、「皇尊弥栄」と三唱後に拳銃自殺。野村秋介の壮絶すぎる人生に思いを馳せます。その生き様と死に様に、震える程に痺れます。「激しき雪」と言う言葉が美しいまでによく似合う。
    そんな野村秋介の師は「三上卓」。名前だけですが勝手にご縁を感じています。

    どうか僕に良いも悪いも言わないでおくれ。激しい雪が好きなんだ。僕はただ、そんな風にしか生きられないだけなんだ。狂わなければ、この世界で生きていけないだけなんだ。
    本日も皆様、宜しくお願い致します。