三上雅博のトーク
トーク情報- 三上雅博
三上雅博 えんじゅの並木路で 背をおさえつける
秋の陽なかで
少女はいつわたしとゆき遇うか
わたしには彼女たちがみえるのに 彼女たちには
きっとわたしがみえない
すべての明るいものは盲目とおなじに
世界をみることができない
なにか昏いものが傍をとおり過ぎるとき
彼女たちは過去の憎悪の記憶かとおもい
裏ぎられた生活かとおもう
けれど それは
わたしだ
生まれおちた優しさでなら出遇えるかもしれぬと
いくらかはためらい
もっとはげしくうち消して
とおり過ぎるわたしだ
ちいさな秤でははかれない
彼女たちのこころと すべてたたかいを
過ぎゆくものの肉体と 抱く手を 零細を
たべて苛酷にならない夢を
彼女たちは世界がみんな希望だとおもっているものを
絶望だということができない
わたしと彼女たちは
ひき剥される なぜなら世界は
少量の幸せを彼女たちにあたえ まるで
求愛の贈物のように それがすべてだそれが
みんなだとうそぶくから そして
わたしはライバルのように
世界を憎しむというから
ーーー吉本隆明『少女』
「荒地詩集1956」(昭和31年)所収 - 三上雅博
三上雅博 昔話です。
若い頃ある店を辞めたタイミングで、もう全てに疲れ果て、寿司屋で働くのが嫌になり完全にやる気がなくなってしまった。飲食店から離れようと思った。それ以外ならなんでも良かった。僕は目に映った求人広告を見て自動車部品工場で働く事にした。
結局いつも僕は自分勝手で我儘だった。
とにかく残業するのが嫌だった僕は、定時までの間にそのラインの1日の過去最高生産数を上回る数字を毎日出し続けた。
工場は夜勤と日勤の2交代制だった。
僕は残業をせずに、必ず2時間残業する反対番の数字を圧倒的に上回った上で定時で帰っていた。
僕は定められたルールを守らなかった。
10時12時15時の全ての休憩を取らず食事も取らず、無駄なく効率よく、速く速く速く。より自分の動きを研ぎ澄ませながら、ただひたすら狂った様に機械をぶん回した。
「休憩しろ」と言われたら、「僕を止めるならクビにして下さい」と答えた。その結果、圧倒的に数字には差がついた。ラインの1日の生産数で僕を超える人は誰1人いなかった。それを毎日続けた。
そうして、3ヶ月後に鮨の道に戻った。 三上雅博 見城徹見城徹 静岡新聞の僕の連載コラム[窓辺]の第6回目です。
『エド』(2019.2.11掲載)
20年程前、熱海に温泉付きリゾートマンションの1室を持っていた。
最上階の角部屋で地中海と見紛うような景色が見渡せて、一目で気に入った。
森村誠一さんが「人間の証明」で人気絶頂の頃から各社の担当編集者が集合する会が年に2回盛大に熱海で催され、毎回出席していたので土地勘もあった。週末は熱海で過ごすことが多くなった。中華の「壹番」、フレンチの「カフェ・ド・シュマン」、洋食の「スコット」、しゃぶしゃぶの「はまだ」等によく通った。
丁度、エドと名付けたシェットランドシープドッグを飼い始めたところだったのでエドとよく街を散歩した。フランス・ニースの海浜公園を彷彿とさせる海岸沿いをトレーニングも兼ねてエドと走った。子供の頃、飼い主夫婦の夫だけに喋る馬が主人公の「アイ・アム・ミスター・エド」というアメリカの連続ドラマがあって、大好きだった。だから馬に似た犬種で、いつか喋ってくれるという期待を込めて名前もそこから頂いた。走り終わった後、海を見ながら海浜公園のベンチに座って、傍らのエドに仕事の愚痴や人生の感傷を話しかけたものだ。エドはついに喋ることもなく15歳でこの世を去った。
マンションは6年程で売り払ったが、何人かの作家が熱海に住んでいることもあって時々、熱海を訪れる。
海岸に足を伸ばす。ベンチに腰をかける。あの頃、エドは僕を励ましてくれる一番の親友だった。目を閉じると熱海の海にエドの姿が浮かんで来る。