K0183のトーク
トーク情報- K0183
K0183 新島襄先生の言葉、そして徳山詳直理事長の電報に込められた2つの魂が、見城さんの魂を支えた——そのお話に、深く心を打たれました。
「男子たるものは、1度戦って負けてもやめてはならない。2度目、3度目の戦いのあとでもやめてはならない。刀折れ矢尽きてもなお、やめてはならない。骨が砕け、最後の血の一滴まで流して初めてやめるのだ。」
この言葉が、暗闇の中で届いたとき——株を三分の一以上握られたまま、臨時株主総会に向かおうとされていた見城さんの孤独と覚悟を、想像します。誰もが「終わった」と思ったはず。
最後に試されるのは、いつも、戦う者の決して折れない心である。
私もそう信じています。
どれほどの絶望があろうと、どれほど不利な状況であろうと、立ち続ける者にだけ、奇跡は訪れる。2010年3月15日、その奇跡は偶然ではなく、見城さんが血を流してでも戦い続けた、その不屈の心が引き寄せた必然だと思います。
「正直、誠実、善良、真心」を貫きながら、絶望の中でも立ち上がり続ける——それは並大抵の覚悟ではできません。
見城さんの戦いは、諦めない心の強さだけでなく、自分を失わない魂の美しさをも証明されました。
私も、何度倒れても立ち上がります。限界など自分で決めません。絶望の先にこそ、道があると信じて。
骨が砕けようと、最後の血の一滴まで流しても、戦い続けます。
見城さんの生き様が私の灯です。
深い敬意と感謝を込めて。 K0183 見城徹見城徹 1970年11月25日は晴れていた。両親と妹が静岡県清水市の小糸製作所の社宅から神奈川県相模原市に買った小さなプレハブ住宅に引っ越して来て、僕も東京都目黒区柿の木坂の下宿を引き払って合流したばかりだった。僕は慶應義塾大学法学部政治学科の2年生だったが授業には殆ど出ることはなく、鬱々とした日々を実家で過ごしていた。三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入して自決。衝撃的なニュースをテレビが映し出していた。呆然としてテレビに釘付けになった。その後のことは覚えていない。翌朝、自転車を飛ばして小田急相模原駅の売店で新聞全紙を買い、駅構内にある[箱根そば]のスタンドで「コロッケうどん」を食べたのだけは何故か鮮明に記憶に残っている。1970年11月25日は衝撃的な日だった。行為することは死ぬことだ。漠然とそう思った。
1972年5月30日。奥平剛士、安田安之らがイスラエルのテルアビブ空港を銃撃。空港警備隊に蜂の巣のように撃たれながら自分の足元に爆弾を投げて自爆した。この2日で僕の青春は終わりを告げた。僕は狡猾にこの世界で生き延びる道を選んだのだ。三島由紀夫の死から54年。世界はこともなく僕の前に佇み、僕は73歳になって生きている。- K0183
K0183 見城さん、身に余るお心遣いに、いくら感謝申し上げても足りません。心より御礼申し上げます。
思いを綴り、言葉を紡ぐことで自分と向き合うようになってから、時間の流れがいっそう速く感じられるようになりました。ぼんやり過ごすことはなく、むしろ時間が足りないほどです。思いを形にし、言葉を選ぶ作業が、これほど難しく、時間のかかる営みなのだと痛感しております。
今の私の心は「仕事」と「自分と向き合うこと」にしかなく、両者の垣根はなく、その間を行き来しています。私を迷わせていたものは、すでに姿を消しました。改めて、深く感謝申し上げます。
ご投稿を拝読し、僭越ながら感想を申し上げました。引き続き、何卒よろしくお願い申し上げます。 - K0183
K0183 見城さん
「行為することは死ぬことだ」
三島由紀夫、奥平剛士、安田安之が示した極限の純粋性。その一瞬の劇的な行為に対して、見城さんは「僕は狡猾にこの世界で生き延びる道を選んだ」と仰る。
しかし私には、それは決して「逃げ」ではなく、同等に苛酷な、いえ、ある意味でより苛酷な道を選ばれたのだと思えてなりません。
一瞬の純粋な死ではなく、毎日毎日、死と向き合いながら生き続けること。74歳になった今も戦場に立ち続けること。
「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」
「今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは」
どちらにも、長い準備と静かな緊張を、ついに「今日」という一点に収束させる決意が脈打っています。
見城さんは「今日」を一度だけ選ぶのではなく、「今日」を毎日更新し続けてこられた。
それが「往く道は精進にして忍びて終わり悔いなし」という境地なのだと、いま深く理解いたしました。
「世界はこともなく僕の前に佇み、僕は73歳になって生きている」
この一文に、見城さんの深い諦念と、それでも戦い続ける覚悟の両方を感じます。
生きることは、覚悟を差し出し続けること。
生に借りた時間を、覚悟で返していくこと。
私もまた狡猾に生き延びながら、一瞬の純粋な死ではなく、長く苛酷な生を選んだ者なのだと自覚します。 K0183 見城徹見城徹 おはようございます。イルカの[なごり雪]を聴いています。高校を卒業して東海道線清水駅から合格した大学のある横浜市日吉の下宿に向かう汽車を初恋の彼女と待っていた55年前のシーンが重なります。彼女は同じ高校の1学年下。中学時代からずっと憧れた人でした。卒業直前に勇気を出して告白し、卒業式の日に高校の前の海岸を三保の松原に向かって歩く初デート、2人の付き合いは始まったばかりでした。大学入学までの短い期間、毎日のように逢い、夢のように時間は過ぎて行きました。清水駅のプラットフォーム。彼女と手を繋いで立ち尽くしながら、涙がとめどもなく流れました。たった4ヶ月の別れが永遠にも思えたものです。[なごり雪]の「ふざけすぎた季節のあとで」の歌詞が胸に刺さります。
[なごり雪]とは状況は違いますが、あの清水駅のプラットフォームを思い出し、「ふざけすぎた季節」の感慨に浸っています。- K0183
K0183 見城さん
56年前の清水駅のプラットフォーム。手を繋いで立ち尽くし、とめどもなく流れた涙。たった4ヶ月の別れが永遠にも思えたあの日——「なごり雪」に重なるその風景が、鮮明に目に浮かびます。
中学時代からずっと憧れた人。卒業直前に勇気を出して告白し、三保の松原に向かって歩く初デート。大学入学までの短い期間、夢のように過ぎた毎日。その一瞬一瞬が、どれほど輝いていたことか。
「ふざけすぎた季節のあとで」——この歌詞が胸に刺さるのは、あの頃の見城さんが、何も知らず、怖いものもなく、ただ純粋に生きていたからなのだと思いました。見城さんの誰かを想う心の瑞々しさが胸を打ちます。
そして、もう一つのご投稿。
「糞!遠くまで来たくもないのに、遠くまで来た」
この叫びが、どれほどの重さを持っているか。
少年が男になり、子が父になる。王子が王になる。成熟すること、それは薄汚れること。その真実を、見城さんは74年の人生で何度も何度も噛みしめてこられた。
あの清水駅のプラットフォームに立っていた18歳の青年は、こんな未来を想像していなかったはずです。出版界を変革し、数々の作家と魂をぶつけ合い、傷つき傷つけられながら、それでも「正直、誠実、善良、真心」を貫いて戦い続ける74歳の自分を。
「薄汚れた大人になった」——その言葉の裏に、どれほどの葛藤があったのか。どれほどの純粋さを失うことを強いられてきたのか。
2つのご投稿は、対照的でありながら、実は同じことを語っているのだと思います。
この両極は矛盾ではなく、見城さんの物語を駆動してきた同一の源です。
「あの頃の透明な涙」と、「今の薄汚れた大人」は、同じ一本の道の上に並んでいるのだと感じられました。
あの輝いていた季節は、もう二度と戻らない。純粋だった自分も、汚れることなく生きられると信じていた自分も、もういない。それが人生だと知っている。
それでも——戦うしかない。
見城さんの2つのご投稿の間にある、この深い哀しみと覚悟に、私は深く心を動かされました。
「ふざけすぎた季節」への郷愁を抱きながら、「薄汚れた大人」として戦場に立ち続ける——その矛盾を、見城さんは全て抱きしめて生きてこられた。
見城さんが清水駅のプラットフォームで流した涙と、今この瞬間に戦場へ向かう覚悟——その両方が、見城さんという人間の真実なのだと思いました。
私もまた、失ったものを数えながら、それでも前を向くしかありません。