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死ぬために生きる

『読書という荒野』を拝読してからと言うもの、僕の中での"読書"は、何かを獲得し、自分の血肉に変えると言う行為になった。 本を読み、言葉を堪能するだけではなく、実践者として自分の言葉や経験にしていかなければいけない。 実践する前に、僕は"自分自身と会話する"というプロセスを挟む。 何者にもなれていない自分と、その原因となる努力不足と甘さを露呈し続けてきた自分を反省し、本気で変わりたいのならやるしかないと発破をかける。 その癖がついてきたのか、本と対面していない場面でも、自然と自分の内面と向き合うことが多くなった気がしている。 まだまだ質も量も足りないのだが、多分これは、自己検証、自己嫌悪、自己否定をしていると言うことだと思う。 僕にとっての最大の敵は自分自身。もう少し詳しくいうと自分自身への甘さだ。 キツい中でのもう1回、ダッシュもう1本、もう1日だけ続けてみる、と言うことをしてこなかった。 その結果が今の僕だ。ものすごく中途半端な人間なのだ。 僕にとっての最大の敵である"甘え"が出そうになった時、今は自分の内面が語りかけてくる。 「そんなんで何者かになれるか」 「それで結果は出るのか」 「一日一生できているのか」 と。 僕の内面が僕自身に踏絵を迫ってくるかのようだ。 ここでやらなければ自分自身に見限られる。 昨日ウエイトをがっつり行ったので、ぱんぱんな大腿四頭筋や筋疲労を言い訳に、今日は軽めにトレーニングを行った。 しかしトレーニングを終えて食事している最中に、自分の内面が語りかけてきたのだ。 これからもう1トレーニング入れる。そこに理はない。

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思い残すことなく死ぬために
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  • 死ぬために生きる
    見城徹見城徹

    ↑ 僕は全員とイーブン。相手に真心さえあれば、
    それでいいんです。そのことを僕は石原慎太郎さんから学びました。石原慎太郎さんは単純明快にそういう人でした。カッコ良かったなあ。

  • 死ぬために生きる
    死ぬために生きる

    チーム合流(渡航)まで2週間ほど。
    復帰戦までは1カ月と1週間。

    身体の数値のみで言えば、体重、体脂肪率、筋肉量などの経過目標をクリアし、1年半ぶりの復帰になんとなく希望が持てていた。

    しかし、サッカーは身体の数値だけでプレーはできない。

    ポジションや選手の個性によって求められる役割は変わるが、90分走り切る能力が必要であり、ボールを足で扱う技術も必要だ。

    頭も使い続けなければいけないし、何より精神面が重要だ。
    心が折れて自分自身に負け始めたら、目の前の相手や相手チームとの勝負にも勝てなくなる。

    結局1番重要なのは精神面だと僕は思う。

    精神面を鍛える1番の方法は、あえてキツいトレーニングを行い、それを自らの糧とし、日々自分に勝ち続けて生活することだ。

    その精神面を鍛え直すために、また心肺機能を戻すために、今日は1年半ぶりに中距離のタイムトライアルを行った。

    結果は残酷。
    1分半もタイムが遅くなっていた。

    しかし、ただひたすらに身から出た錆。
    僕はこの1年半で、自分を甘やかし続けてきたのだ。

    この1カ月トレーニングをやり切ったからと言って、僕の心身にこびりついた甘さを拭い去ることはできていない。

    むしろこの1年半だけの甘えではない。
    30年間圧倒的努力をせずに、ほどほどやってほどほどの結果で満足していた、自分の甘さがここで溢れ出ているのだ。
    本当に情けない。トレーニングをしながら情けなさと悔しさで涙が出た。
    泣く資格すらないと言うのに。

    僕はかなり数値に精神を左右されるので、タイムが遅くなっていると言うことで、復帰するのがかなり怖くなってしまった。

    しかしやるしかない。
    ここで自分の責任から逃げ、人生を諦めてしまったら、僕は命があるだけの死人になってしまう。

    サッカーを復帰すると決めたのも、やりきって引退するためだ。
    今のままだと絶望しきって引退することはできないし、絶望しきって死ぬこともできない。

    そして復帰を決めたもう1つの理由は、圧倒的努力で結果を出すと言うことを、自分の骨身に染み込ませたいからだ。

    本当に怖いし、本当に憂鬱だが、ただやり続けるしかない。
    1日では変わらずとも、1週間、1カ月、1年と続ければ差は歴然だ。

    今までの自分であれば、また適当に努力して適当な結果で満足していただろうが、755を始め、毎日見城さんや見城さんを愛する皆さんの言葉と考えに触れ、日々を生き切れるようになってきた実感がある。

    まだまだ甘いがやるしかない。
    長くまとまりがない文章だが、これが今の僕のリアルだ。

    引退する時に、この文章を見た未来の僕は、過去の僕を笑って愛してくれるだろうか。

    今日も残り1時間生ききる。一日一生。

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    死ぬために生きる
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    『男の粋な生き方』

    男として人としてのカッコ良さとはなんたるか、本当の「粋」とはどう言うものかを、この本を読むことで教えていただいた。

    現代の若者は、格好つけることを「イキってる」などと言い、「粋」と言う言葉を無駄に多く使ってはいるが、そこに言葉の重みはない。
    僕も含めて現代の若者は、どこか甘く、危機感なくただ共同体の一部として生きている人が多いのだと思う。

    石原慎太郎さんの言葉はとても強い。
    しかしその強さの裏には、確かな愛や優しさを感じる。

    ご本人が実際に体験し、思考し、獲得してきた言葉だからこそ、その人となりや心の内側が真っ直ぐあらわれているのではないかと思う。

    そして、本当に言葉が美しい。
    日本人で良かったとさえ思わされる。

    全章、全エピソード、全文字素晴らしいので、どこかを抜粋するなど大変恐縮だが、あえて選ぶとするならば、P248[第十八章・君の哲学は]に登場するこの文章だ。

    (以下抜粋)
    「大事なことは先達のこうした表現に啓発されて君が君の哲学をすることだ。つまり自分自身の存在とは一体どういうことなんだ、自分とは一体どういうものなんだと考えることが人生の弾みになるのだ」

    この文章を読んだ時、僕は『読書という荒野』のP220の見城さんのお言葉、「読書とは自己検証、自己嫌悪、自己否定を経て、究極の自己肯定へと至る、究極の武器なのである」を思い出した。

    本質的な部分は同じなのではないかと思う。

    どんなに何かから刺激を得ようと、知識を得ようと、素敵な方から言葉をもらおうと、何を貰おうと、結局は僕の中にしか答えはないのだ。

    人生を好転させるのも、転落させるのも、僕自身なのだ。
    圧倒的努力を、僕がするしかないのだ。

    そして、374ページ、全体で二十八章からなるこの本の最終章の名前は、『勝者には何もやるな』。
    最高に痺れる、美しい、粋な終わり方だ。

    他に読もうと思っていた本があったのだが、見城さんが755で石原慎太郎さんのお名前を出されていたので、いてもたってもいられずに読み始めてしまった。

    僕は何者でもない。
    たいそうなことは言えない。
    結局は個体の掟で自分自身の人生を生きていかなければいけない。

    しかし、石原慎太郎さんのようなカッコ良い粋な男になりたいと強く感じた。
    むしろこんな男や人がいなければ、世界は、日本はダメになってしまうのではないかとも感じた。

    また一冊僕の人生のバイブルが増えた。

  • 死ぬために生きる
    死ぬために生きる
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    先日は母の誕生日だったので、[鮨大越]でお寿司をいただき、ワインも楽しんだ。

    親方さんが丹精込めて握るお寿司も、故郷のワインも、クラウディ・ベイも、僕にとっては贅沢極まりないものだ。

    何者でもない僕が素敵な食事やワインをいただいたわけだが、つくづく僕は自分自身に甘い人間だなあと思い知らされる。

    特に今は復帰前で身体を作らなければいけない時期なので、本来であれば自分のルールの中では御法度だ。

    しかし、母の誕生日となれば話は別だ。

    話すと長くなるが、父はつい最近も警察沙汰を起こしたような人間だ。

    だから僕は、幼少期から自然と母を頼りにし、母だけは裏切らない、悲しませてはいけないと思い生きてきた。

    母は、父のことや様々なネガティブなことを自分の人生だと受け入れ、その上で働きに働いて、姉と僕を育て上げてくれた。

    60歳になった今でも、次の日の明け方まで仕事をして帰ってくることがある。

    地震があった際などは、自らが園長を務める子ども園が海沿いにあるからと、園児や職員を心配して地震直後に向かっていくこともあった。

    身体や命は大事にして欲しいと思いながら、それでこそ僕が尊敬してやまない母の姿だと感心させられる。

    僕が1年半ぶりにサッカー選手復帰を決めたのは、圧倒的努力を骨身に染み込ませるため、絶望しきって引退するためなのだが、心の片隅に、母にちゃんとしたスタジアムでの試合を観に来て欲しいと言う気持ちがあるからだ。

    お互いいつ死んでも良いように、感謝は伝えるようにしているが、願わくばその試合を観てもらえるまでは健康でいて欲しいと思う。

    つまるところ、僕は母離れできていないのかもしれない。

    母との会話に花が咲き、昨日はいつもより少し多くワインをいただいてしまったので、今週のトレーニングは立てていたトレーニングプランよりもハードに行う。

    母よ、誕生日おめでとう。
    そしてありがとう。

  • 死ぬために生きる
    死ぬために生きる

    見城さんが飲まれたワイン

    左から

    コレ エスプリ・クチュール 2012

    ドメーヌ・アラン・ミシュロ ニュイ・サン・ジョルジュ 2020

    やはり見城さんが撮られる料理の写真、ワインの写真は、美味しそうの一言を超える、美しさがある。

    夜分遅くに申し訳ございません。